聖なる者になるように呼ばれているとはいっても遠い道のり

割に合わなかった

オナガ?MEアジア会議会場横で。

オナガ?MEアジア会議会場横で。

2時間の舟、2時間のバイク、2時間崖路をたどってやっと着いた教会で待っていたのはたったの5人。思わず叫んだ。「なんだこれは!たったの5人!」(ボクの編集)。そんな風な気持ちになったのは確か。ところが、5人の中には、川を渡り、やはり2時間歩いてきた老婦人がいた。

アジア代表司祭の分かち合いはそこで終わったが、「聖性を生きるという」ことが「こういうことではない」ということは分かった。本論からそれるが、36年前の体験がよみがえった。マニラから特急バスで北のバギオまで5時間、一泊して乗り合いバスで5時間、いくつものつり橋を渡っての徒歩で5時間。ようやく着いた先は村人150家族全員がカトリック信者で、かつて日本軍が敗走中逗留したという美しい休火山の麓のパリーナ。ここでは村を挙げて歓迎されたので、話の神父さんとは真逆。それにしても、フィリピンにはいまだに似たような状況が南の方にも残っていることに驚いた。

ありのままの自分と出会う

楓の実をまさぐるリス。会場横で。

楓の実をまさぐるリス。会場横で。

ともあれ、神父さんほど深刻ではなくても大なり小なり似たような体験は誰にでもあるのではないか。今朝のミサの朗読はコロサイ書とルカから。いずれも愛が述べられており、「何もあてにしないで貸しなさい」(ルカ6・45)が決め手となってシスターたちに話してみた。修道院の中にいても人の子に変わりはない。やはり頷いてくれた。ありのままの自分と出会うことはHolinessを生きるときの基本。

誰が誰を

カササギ?

カササギ?

また昔話になるが、1階から4階の図書室まで使いに行って御所望のものを息せき切って持ち帰り、「はいこれです」と言って手渡すと「これです!これです!」と喜ぶだけで労をねぎらってはもらえなかった神学生の悲しき思い出。脳裏から消えることはない。敢えて名は明かさないが既に天国の住人。Call to Holiness.他山の石とすべし。誰が誰を?

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