弔辞というのはいい思い出を一杯語ること
が基本になっていると思う。信徒代表の言葉はふさわしかった。それを聞いて少し安心した。しかし、通夜の説教と言っても弔辞みたいなもので、みことばを解説するだけでは足りない。だから困った。生前の彼に対しては厳しい要求ばかりしていたように思うからだ。
一方で、キリストの祭司職に与った者として御父はしっかり受け取られたに違いないという思いは揺るぎなくある。何よりも、故郷を遠く離れた地で、しかも、司祭団や信徒がいたとはいえ、身内に看取られることもなく、ある意味孤独のうちに逝った姿はすべてを捧げた者としての最後にふさわしかった。何よりも、十字架上の主の最後に通じる姿ではないか。頭でそう整理できた。
これまで身内の涙を見ることのなかった司祭の葬儀の例をボクは知らない。そういう点で彼にかなう者はいない。誰が何と言おうと、彼はすべてを捧げ尽くしたのだ。だから、これまで色々あったとしても結果オーライなのだ。悔やまれるのは、通夜の説教でこのことを強調できなかったこと。指宿に帰って一息ついたときハッと気がついたことだったからだ。彼に「ごめんね」と言いたい。
「彼の口から家族のことを1度も聞いたことがない。」そんなことを聞いたことがあるが、彼は本当は寂しい人だったのではないか。それも確かめようのないことなのだが、もしそうだったとしたらなおのこと、御父がほおずりしながら迎えておられるに違いないのだ。そして、どんな家族の愛にも勝る御父の愛に包まれた彼の今が思われて心の霧が晴れた。ようやく彼に乾杯、いや献杯したい気持ちになった。
書いてみるのはやはりいいね。時間はかかったが、彼に正面向かってようやく「ありがとう!」が言えた。奉献の真の意味を教えてくれたように思うからだ。
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