そして、天草と言えば天草五橋のある観光地
という印象が一般的かと。実は、姉が天草の修道院に転勤になったことで、「20日の誕生日は天草で」という声が上がったのは先月だったか。発展家の姉は、あれよあれよという間に主任司祭や信徒を巻き込んだ実施要項を作ってしまった。こうして、3姉妹と甥、姪6人が一堂に集まり天草での歴史的誕生会開催となった。
関西組の4名は熊本空港からレンタカーで天草五橋を渡り、本命のボクは長島蔵の元港-牛深を経て4時間あまりのドライブで集合。久しぶりの再会を喜んだ。手前の崎津教会には何度か行ったことはあるが、大江は30数年前高校生の長崎巡礼に同行して以来だ。記憶にあるのは丘の上の白っぽい聖堂だけなので初回も同然。
何棟かの建物を改装した旅館はどの部屋も広々としたフローリングにベッドの快適空間。しかも、「どの部屋もご自由に」ということで、3姉妹以外は広い三つの部屋を独り占め。驚いたのは夕食。昼いっぱい夜は少なめの小食派のボクには拷問。「せっかくだから、死ぬ気で食べる。」ボクには珍しいアルコール僅少の誕生祝いとなった。
以上は序文みたいなもので、今日書きたかったことは「天草はキリシタン文化の中心地だった」ということ。天草コレジヨのことは聞いたことはあると思うが、天草コレジヨ館の充実した多くの資料は必見だ。グーテンベルクの印刷機は複製ながら、ドイツの専門家を招いて組み立てたもので現在でも印刷が可能。現地から取り寄せた天正の少年使節(1582-1590年)を乗せた南蛮船の模型もある。
豊臣秀吉の禁教令(1589年)により迫害が激しさを増す中ここ天草にコレジヨはできた(1591-1597年)。大分で始まったコレジヨは幕府の目を逃れて最終的には遠隔の地ここ天草に移動してきた。当時、司祭修道士60名、従業員60名の合計120名の大所帯だったという。コレジヨは日本人聖職者養成の学校、つまり神学校。
にわか勉強では多くの疑問も残るが再訪して資料にあたることで知識を深めたいと思う。
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