熱かった奄美教会の草創期

みこころ教会の庭先にあるフェリエ神父の胸像奄美の教会群の空撮画像にコメントを付ける作業をしていていくつかの興味深いことに気がついた。一つは、奄美の宣教が初めから一貫して「人々の要請が先にあった」ということ。県から派遣された臼井さんという大工の棟梁が、島の大工さんたちにキリスト教の話を始めたことから始まる。また、時を同じくして、大島区裁判所検事岡程良(おか・ていりょう)氏-イエズス会士岡俊郎神父の曽祖父-はじめ島の有識者たちの提案を受けた有志十数名が、奄美への宣教師派遣の招請状を鹿児島のキリスト教各派に送付したという。

こうして、人々のキリスト教への関心の高さを知ったフェリエ神父が来島することになった。1891年(明治24年)12月31日のことだ。10日間の奄美宣教を終えて帰鹿した神父の手には500家族の求道者名簿が握られていたという。明けての3月、フェリエ神父二人の伝道士を伴って着任。本格的な宣教が始まった。名瀬を中心にたちまち多くの人々が洗礼を受けた。

そのニュースは徳之島にももたらされ、翌年の1893年(明治26年)12月、12名の代表がフェリエ神父に福音宣教を要請したという。これが島内における最初の宣教要請。しかし実際に宣教が始まったのは1901年(明治34年)ブイジュ神父による。8学校教育にも貢献された中村長八神父年ものブランクは長すぎるが宣教師のやりくりがつかなかったのかもしれない。

ともあれ、宣教開始4年後の1896年、信者数は早くも1603名にも達し、同年5月、名瀬、浦上、大熊ではクザン司教による奄美最初の堅信式も行われた。

1897年(明治30年)3月中村長八神父の赤尾木(あかおぎ)赴任を待っていたかのようにやってきたのは手花部(てけぶ)からの要請だった。

3年後の1900年(明治33年)になると、嘉渡から大熊のリシャール神父のもとにも要請が来た。「布教を懇願」したのは松岡富良氏であると記されている。

1903年(明治36年)12月、大笠利からも要望が寄せられ、中村長八神父がこれに応え、説教の度に400-500名の聴衆が集まったという。同年5月にはクザン司教による二回目となる堅信式が行われた。22日は大熊。「23日、嘉渡、瀬留、屋入(やにゅう)、赤尾木、手花部で堅信式」とあるが、一日に五か所でそれぞぞれに執行されたというのではなく、一か所に集まって授けたものと思われる。「嘉渡教会では徳之島宣教の後瀬留に赴任されたブイジュ神父75名が堅信を受ける」とあるのはそういう意味ではないかと思われる。

それにしても、屋入(やにゅう)とあるのに驚いた。故郷瀬留の対岸にある村で、子供の頃カトリックとは全く縁のない所だったからだ。しかし、屋入での宣教は1894年(明治27年)瀬留の宣教と同時に始まったことになっている。知らないことだった。

ともあれ、1907年(明治40年)になると、秋名では住民数百人が嘉渡のボネ神父に洗礼志願を申し出たという。シマの人々がケッコウ新しがり屋だったことに驚いた。というよりも、「神様が福音のためにシマの人々の心を前もって整えてくださっていた」と言ったほうがいいかもしれない。

夢よもう一度!といきたいところだが…。

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