元乙女たち200余名で埋め尽くされた奄美の浦上教会はさながらクリスマスの盛況

 奄カ連肝っ玉母さん

祭壇前にも月桃の花が6月10日、梅雨空の奄美に飛んだ。「条件付きです」に気をもんだが、事なきを得た。そして、11日、奄カ連こと奄美カトリック女性連盟39回総会。初めての参加、というより、初めて招かれた集いだったが、高齢化の進行はやむを得ないとしても、奄美の教会の元気の秘密を見たように思った。会議そのものは紛糾することもなく全くの平穏そのもの。それだけに、某教会の状況は心痛む思いだが、そうした現実を飲み込んでいくだけの泰然自若とした落ち着きと風格みたいなものを感じた。各小教区からまとまって参加するのが建前のようで、御心教会からはバスを仕立てての参加。

婦人会はダメ?

ところで、婦人連合というのをやめて女性連盟と呼ぶようになったのがいつのことだったか記憶は定かでないが、理由を聞いて思わず失笑したのを覚えている。婦は女+箒(ほうき)。つまり婦人というのは箒を手にして掃除をする人という差別的イメージを与えるのでふさわしくないというものだった。

婦人会再考

奄美はイジュウの花も満開しかし、よく利用する漢字語源辞典(藤堂保明著)によると、婦は夫にピッタリ寄り添うという意味だとある。字統(白川静著)を開くと、箒は掃除のためではなく、酒を含ませて廟を清めるためのもので、婦とはその役を担っている女性のことだとある。廟(びょう)とは祭儀を執行するところ。先ず清めてからでないと始まらないという重要な役割を女性が担ったということは興味深い。巫女のことだと思われるが、いずれにしても、「婦人」は差別どころか女性の地位と役割を明確に表すもの。単なる性別を意味する「女性」では女性特有の役割や尊厳が見えてこない。したがって、奄美カトリック婦人連合会がふさわしい。日本レベルの組織なので、全国会議で名称再検討の提案をしたらいいと思うがどうだろう。

要は婦人だった

晴れているときは海の青さが際立つ講話そのものとは関係のない話になったが、「要(かなめ)となって生きる」が演題だった。少し苦しいが、婦人が廟を先ずお酒で清めてから祭儀を行うことになっていた古代中国の習わしを思うとき、そこでも婦人が重要な役割を担っていたことになり、そういう点でも、婦人が要となっていたことが分かる。ということで、名称について述べたことと演題が必ずしも脈絡のないものではないことになりそう。もっとも、講話の中心はやはり創世記一章から。神様との関係が壊れたところからあらゆる分裂が生じるようになったので、神様との関係改善こそが、日常生活を調和あるものにするための要。

ミサ説教音声

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