1年最後の締めくくりはやはり天草巡礼その2となるのだが

巡礼と言えば殉教者について書かなければ、

ということで、今日はアダム荒川について。地元の皆さんはとっくにご存じでも、鹿児島のご一行様にはアダム荒川と言われてもピンとこなかったと思う。そういう自分も名前は見たことがあっても、どんないきさつで殉教したかは全く知らなかった。一般信徒で主任司祭を支えた人だと分った。

地図下崎津 北端苓北町

地図下崎津 北端苓北町

殉教地はきれいに整備された広場になっていた。掲示板で知った限りだが彼について紹介したい。と言っても、天草の地図も頭に入っていないので地名が出ても特定できないのがもどかしいのだが。ただ、崎津と大江の位置関係はしっかり把握されているので、天草初級課程はマスターしたことになるかも。

ともあれ、アダム荒川の本名は不明。と言うのも、生まれた場所が荒川とあるので洗礼を受けたときは名無しの権兵衛さんだったのか?それとも、荒川家のひとりで、たまたま名前と地名が一緒だったというのか、疑問は残る。いずれにしても、2008年に列福された188殉教者の1人で天草唯一の福者というのは鹿児島と同じ。

アダム荒川は1550年生。若い頃過ちを咎められ領主より処刑を言い渡されたが、主任司祭の執り成しで放免。1590年志岐の教会に派遣され生涯司祭を助けながら信仰の道を歩むことに。1614年主任司祭が長崎に連行され留守を預かることに。64歳。領主による棄教のすすめに応じなかったので逮捕拷問。

「袋湾の浜に裸にされたアダムは二本の丸太に縛られ、朝から晩まで、3月の冷たい風にさらし置かれた」と中央協議会のHPにある。それでも、静かに祈り、見舞いの人々に信仰を説き続けたという。その後、狭い部屋に監禁され、1614年6月5日に斬首された。享年64歳。

荒川(現吉川)とあるがその吉川が特定できなかった。「志岐の教会」の志岐は苓北町に志岐小とあるのでどうやらその辺らしいことが分った。苓北町には「キリシタン供養碑」というのがあるのも分った。今後は調査隊?を編成して天草のキリシタンについてもっと独自に知りたいと思った。(続く)

 

 

 

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