フーッ!

ミニシクラメン午前7時、迎えの車で加世田教会堅信式へ。かねて会うこともない終身助祭との一時間のドライブは有意義だった。ホテルの支配人を長年務めただけあって、物の味方人間関係に関する見解は明確。キレのいい会話を楽しむことができた。9時のミサには余裕をもって臨むことができた。

説教音声は、操作ミスで今回もなし。これで何度目か。操作ミスというか、iPhonのタッチパネルは敏感過ぎて、何かがちょっと触れただけで瞬時にして他に飛んでしまう。今日は、録音画面、自動ロック制限なし、で臨んだのにエクスポート画面になっていてあわてた。元に戻そうにも焦っているものだからすっかり冷静さを失った。

信者席の「シーン」にますます焦った。何をモタモタしているのだろうと思ったに違いない。「あ、えーと、ハイでは…えーと今日のお話は…」と間延びした開始となった。そろそろ、かつてのように専用のレコーダーに変えようかと思い始めた。あ、それはそうと、かつてのように説教を手書きにするわけにはいかないが、大意次のようなものだった。

「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」(ロマ16.25)。これは、みんなが、神さまを「お父さん」と呼んでほしいという神様の思いを明らかにするという意味です。つまり、皆さんが生まれた時から、洗礼をうけて神様の子供となり、神さまをお父さんと呼ぶようになった時に至るまでの道筋が神さまにはあったということです。

自分がどうして、今ここにこうしているのかはそれなりに理由がありますが、完全に説明をすることは出来ません。神様には分かっているというわけです。これまで、悔しい思いをしたり、また後悔するようなこともしでかしたり、様々な経験をしたのですが、こうして神さまの子供となっているわけです。

これがある意味、すべてなのです。せいぜい言えるのは、たとえば、「タマタマ信者さんとの出会いがあったから」というようなことでしょう。それ以前のことはまさに秘められた神さまの計画、つまり神様の思いの中にあったわけです。この説明のつかない神さまの思いを私たちは神様のみ摂理と呼びます。

英語では、プロヴィデンスと言います。まえもって見る、という意味です。それが、神さまの私に対する救いの道筋ということであって、だからそれを恵みと呼びます。過去はどうでもいいことになるわけで、神さまをお父さんと呼ぶようになったのだから昔のことをいつまでもくよくよしてはいけないのです。信仰は結果オーライの世界だからです。

堅信式はそんな神様の道筋を毎日の生活の中で、マリア様の「なれかし」に倣いながら見つけていこうとする大人の信者になるためのもう一つの秘跡なのです。ここまで書いて、かなり疲れた。昔はこれをやっていたのかと思うと、自分をほめたくなる。改めて音声発信の気楽さを実感。

そうでなくても今日は、加世田から帰って1時半―5時ME、5時―6時、教会建設説明会と息つく間がなく少し疲労。これを書いたら寝る。あ、横浜からのお二人、お疲れさんでした。

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