主の受難は十字架が赦しと和解、復活と救いの道具になることを教える神秘

あなたに何をしたか

あなたが私の手となるように十字架といえば当時の死刑の道具。しかも、自ら担いで刑場に向かうよう強いられたという。そんな主の受難を記念する昨晩の典礼は、身近な人の死を悲しみ告別式に臨むときに似て厳粛なものだった。主の告別式。そんな感じすらした。とくに、十字架の礼拝の間中歌われた十字架賛歌にとがめの交唱は胸に迫るものがあった。「民よ、わたしに答えよ。わたしはあなたに何をしたか、何をもってあなたを悲しませたか。わたしはエジプトの地からあなたを導き出したのに、あなたは救い主に十字架を負わせた。」

主の叫び

ソウルの日本大使館前に置かれた少女像そんな重苦しい典礼の中で、まったく脈絡はないのだが、韓国の慰安婦の少女像と韓国の人々のことが思われた。侵略といういわれなき十字架を負わされ、無辜の民が悲惨な生活を強いられる。そんな弱い立場の人々が得体のしれない大きな力にからめ捕られ、あれよあれよという間に日本に駆り出されて強制労働に慰安婦に。とがめの交唱が受難の主の代弁だとすればそれはそのまま韓国の人々の叫びではないのか。

あのままがいい

「やっぱりあのままにしておくべき。」そんな思いが胸を突いて出た。大使館前の少女像を撤去してほしいと日本政府は迫っているがあのままにすべきだと思ったのだ。苦しみを与えた側は忘れたくても、苦しめられた人々の痛みを拭い去ることは容易ではない。むしろ、韓国の人々の悔しさと癒されることのない痛みに、強いられたとはいえ、あのクレネのシモンのごとくに寄り添い、少女像に花を手向けながらいくらかでも痛みを和らげようとするのが加害者の良心ではないのか。そんな風に思えたからだ。

それでも祝ご復活

ポーランド18世紀「見よ、この木によってあまねく世界に喜びが来た。」ああ、そうだといいなあ。「ハギオス・ホ・テオス(聖なる神よ)わたしたちにあわれみを。」繰り返される神への嘆願。これこそ、和解したくても思うようにいかない加害者の祈りではないのか。そんな嘆願を日本政府に求めようもないのだが、だからこそ、信者が代わりに声を上げるように求められている。今夜、そんな戸惑いやいらだちもすべての闇が払われ主の復活の栄光が輝く。明日は一便で奄美での合同復活祭へ。ミサ後運動会もあるという。晴れるといいなあ。

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