神の翼のもとにひっそり身を寄せひっそり生きた奉献生活60年。

ひっそり気高く

ひっそり気高く溝辺の森に立つ十字架

ひっそり気高く溝辺の森に立つ十字架

多くのシスターが献体を希望しているという溝辺聖ヨセフ修道院。高齢化が進む中で、また一人父のもとに帰った。最近は、近くの老人ホームでの生活が長かった。動けない話せない不自由な生活を強いられたが、ホームの皆さんの行き届いた介護のおかげで、笑顔を絶やすことはなかったという。この笑顔こそ、ホームの皆さんには聖母のほほえみであり癒しだった。ほほえみのうちに一生を全うできることこそ究極の奉献生活といえよう。苦労が多いと思われる介護に従事する人々に癒しの笑顔を送り続けたシスターは、自分が癒された神の翼のもとに身近な人々を招き続けた。シスターを御父のもとに送り出したホームの皆さんは、これからもシスターから受けた聖母のほほえみを忘れることはないはずだ。一度しか訪問したことはないが、シスター亡き後も同じ雰囲気で人々に癒しの笑顔を届けているに違いない。シスターが蒔いたほほえみ宣教の種が芽生え、開花し、花園となって多くの人々が癒される老人ホームになるに違いない。老人ホームの名称は「フラワー」。

アフターシスター

こんなことを思いめぐらしていて気が付いた。残された者の使命は、シスターのために祈ることではなく、シスターが笑顔で働いた宣教の場であった老人ホームのその後のためにこそ祈るべきではないか。「あたしは笑顔でしか働けなかったが後のことはよろしくね」と言いたかったに違いない。話は変わるが、葬儀ミサなので笑顔こそ見られなかったが、高齢のシスターたちに手を伸べて支えたり何かと気遣う若いベトナム人シスターたちの姿を見るにつけ、シスターの志は間違いなく引き継がれていくに違いないと思われる。こうして、隠遁生活の場である修道院もまたほほえみの修道院となって花を咲かせる。訪れる人々も笑顔になって帰り、ほほえみ宣教の輪がどこまでも広がっていく。想像するだに楽しくなる。

神の息吹に満されて

静寂の森は神の息吹で満たされている

静寂の森は神の息吹で満たされている

ベトナム人シスターの一人が、遺体の前で目頭を押さえていた。全生涯を捧げる意味を改めて考えていたのかもしれない。それとも、すべてを捧げる結末に思いをはせ、故郷に残してきた老いた両親を思っていたのかもしれない。いずれは修道院全体の責任を任されるであろう若い副院長さんのてきぱきとした動きも印象的だった。そのうち、ベトナム語が修道院の共通語になる時が来るかもしれない。ベトナム語が溝辺の森にこだまする。これもまた楽しい。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3.28)を引用するのはふさわしい。溝辺の森から福音の花びらが舞う。心が躍る。シスター、御父によろしく。

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