貧しい人のための世界祈願日。口先だけでなく具体的な行いをもって貧しい人を助けるように。教皇の熱い思い

 究極の貧しさの

言葉や口先だけでなく具体的な行いをもって

言葉や口先だけでなく具体的な行いをもって

今日は、貧しい人のための世界祈願日。教皇は昨年、いつくしみの大聖年を終わるにあたって今年の年間第33主日を、貧しい人のための世界記念日と定められた。貧しい人々や弱い立場の人々に寄り添う教皇らしい発想だ。イエズス会のメンバーでありながらアシジの聖フランシスコに倣うようにと彼の遺言を引用された。「わたしがまだ罪の中にいた頃、ハンセン病者を見ることは、あまりにも耐え難く思われました。それで、主は自らわたしを彼らの中に導いてくださいました。そこで、わたしは彼らをあわれみました。そして、彼らのもとを去ったとき、以前には耐え難く思われていたことが、わたしにとって魂とからだの甘味に変えられました」(中央協議会HPより)。長いメッセージで2度もアシジの聖フランシスコの名前を出された。

もったいない

食べきれないほどの料理。もったいない。

食べきれないほどの料理。もったいない。

「貧しい人の中にキリストを見る」というのは観念的には分かるが、「どうぞ」と家に招き入れることはできるものではない。せいぜい、冬が始まる頃に衣類を送ったり、読んだ本を送ったりするぐらいのことはやっている。それも、身の回りの整理を兼ねたもので、捨てるのはもったいないというレベルを超えるものではない。今後は「貧しい人の中におられるキリストに着てもらおう」か。

ボランティアミサ

日韓司教交流会閉会ミサ

日韓司教交流会閉会ミサ

ところで、たまたま今日は主任司祭不在とあって、留守を預かる助任司祭の負担軽減のために午前7時のミサを買って出た。文字通りのボランティアだ。今日の聖書と典礼には今日の祈願日についての言及はなく、共同祈願も通常通りで代わり映えしないのは印刷が間に合わなかったらかもしれない。今日から聖書週間が始まり共同祈願でもそのための意向が出されていたが、上記HPにある貧しい人のための世界祈願日の共同祈願をすることにした。

つもり十欠

身につまされるとはこのことか

身につまされるとはこのことか

ともあれ、小聖堂での主日の早朝ミサは初めて。手元のスマホで見ると外気は7℃だというのに、狭い聖堂は幼児や若者を含めた20名ほどでほぼ一杯。小ぢんまりとして落ち着いた雰囲気が良かった。アカペラでの歌唱力にも感心した。ミサ後のお茶で手渡された「つもり十欠」は興味深かった。格言めいた自作の短文は自虐的ではあるが、それだけに誰にもチクリと来て万感胸に迫り思わず首肯。返す言葉はない。いくつか紹介したい。「深いつもりで浅いのが罪の究明」「厚いつもりで薄いのが信仰」「薄いつもりで厚いのが虚栄心」などなど。「日めくりカレンダーにすればいい」と提案した。お昼のカレーパーティーにも招かれた。「近くて遠い小教区」返上の主の日。

説教音声

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