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のんびり・サンデー

作成者 admin投稿日 2006年12月11日 12時15分 最終変更日時 2013年03月15日 23時23分
市民クリスマス(ザビエル)

モーツアルトも歩いた通り

昨日は、何ヶ月ぶりかに予定なしの文字通りオフの日曜日。久しぶりにゆったりした気分を満喫。日も射してきたので洗濯物を外に干した。

午後2:00。市民クリスマスは当ザビエル記念聖堂。5分前に部屋を出ても余裕。まるで隣の部屋に行くような気軽さがいい。約五百人の参加者で超満員。

フランシスコ会司祭本田哲郎神父さんの話は、聖書の勉強みたいだった。幼子の誕生は宿がなく仕方なしに家畜小屋ではない!生まれ故郷に名を届けるために帰ったのだから親戚縁者はいなかったのか?子どもが生まれるというのに知らん振りは考えられない。真っ先に駆けつけたのが、羊飼いに東の国の博士たち。彼らは当時のならず者に異教徒の罪びと、なのだという。ヨセフもいわゆる大工さんではなかった。石を切り出す最下層の労働者。

そこまではいいとして・・・。聖霊によって身ごもった?レイプの被害者だったかもしれない。それを聖霊によって、と言わざるをえなかった云々には、思わずギョッ!神父さんがますます先鋭化してしているのが少し怖かった。

フォンティーヌ鹿児島の演奏はすばらしかった。モーツアルトを二曲も演奏したので、夏に訪れたモーツアルトの故郷ザルツブルグの美しい町並みが蘇った。

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Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2006年12月19日 10時53分
  本田司祭、キリストが神の子だと言うことを信じていないように見受けられる。

 マリアがローマの兵士の子供を生んだと言う話、これはもともと、古代の、キリスト教誹謗文献に初出の話。
  もとより何の歴史的根拠もない想像にすぎない。

 まともな史家、学者は誰も相手しないものだ。

 それをどこからか聞き込んで来て、得々としゃべっている本田師、その無知と軽率、言う言葉なし。

  司教さんもお困りだろう。

 

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2006年12月21日 13時10分
聖母がローマの兵士の子供を生んだと言う話は、古代の反キリスト教、キリスト教誹謗文書に出て来る。古代と言っても、マタイ福音書の御降誕物語が一世紀のおそらく70、80
年代に書かれてから、ずっと後である。

 この文書の名前、小生残念ながら失念。たしかユダヤ教系アラム語の文書だったと思うんですが。

 この文書を知っていると思われる人に、元弘前大文学部教授三好氏がいる。氏は古代ユダヤ教アラム語に通暁している
殆ど唯一の日本人学者である。

 必要ならお聞きしてもいいですが。

  (角田信三郎・通称彦左衛門、元マタイ福音書研究者)

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2006年12月21日 21時18分
本田司祭は信徒の問いかけに対して説明、弁明、釈明の義務がある。ことは信仰の根幹に関わることだからである。

 

主のご降誕、お喜び申し上げます。

投稿者 ま・ここっと 投稿日時: 2006年12月24日 21時08分
郡山司教さま、はじめまして。
フランス西南部の小都市在住の日本人♀です。
聖家族のお話についてTBさせていただきました。
駄文拙文ですがご笑覧いただければ幸いです。
よろしくお取り計らいくださいませ。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 H.Suto 投稿日時: 2006年12月31日 22時21分
司教様! 「神父さんがますます先鋭化してしているのが少し怖かった。」
どころではないのではないでしょうか?
「大いに怖かった」でも不足。
フランシスコ会司祭本田哲郎神父の言動に対して、司教様は
カトリック教会として破門でも不思議ではない、最低限 司祭職停止、の処置をとられるべきだと考えます。
フランシスコ会もなぜ放置するのでしょう。
早めに止めないととめどなく周囲を害毒で染めて行きます。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2007年01月03日 10時08分
 本田師の直接の上司は、OFMフランシスコ会管区長です。
彼は、本田師の言動について、一定の範囲で、注意勧告や、叱責や、禁止、その他の制約を課することができます。それは権利であると同時に、義務、責任の遂行です。つまり監督』責任と言うもの。

 一方、市民クリスマスを催された郡山司教は、教区の中で、宣教、司牧がが適切に行われることに責任を持っています。ところが、本田師の暴挙、暴言によって、それが大きく阻害された。しかし司教は、言うならば、被害者です。事態を正常化して、二度とこういうことがおきないようにする責任はありますが、本田師に直接、職務停止や司祭職剥奪などの強制措置を下す、権限や義務はありません。
 それで司教はどうなされるべきだろうか。 おそらくことの顛末をフランシスコ会管区長に伝え、管区長と合議の上、しかるべき処置をとって貰うことでしょう。

  また本田師の従来の活動地域は、大阪教区です。これまでの本田師の大阪での問題言動については(そういうものがあったことは大きな確率で推定できます)、これを野放しにしていた大阪大司教に道義的に極めて大きな責任があります。
  大阪大司教には、フランシスコ会管区長とともに、被害者である郡山師と鹿児島教区民、その他に謝罪し、また他方、本田師への厳重戒告、場合によっては、職務停止、司祭職剥奪など、制裁措置をとる義務があります。(彦左衛門)



  


 


 

Re:のんびり・サンデー

投稿者 郡山健次郎 投稿日時: 2007年01月03日 13時33分
ま・ここっとさん遅くなりましたが、ボクのページ見てくれて有り難う。あなたの頁を開いて、クリスマス文化の違いを実感させられました。

H.Sutoさん、本田神父さんにはかなり厳しいですね。
彦左衛門さんとやら、冷静なコメント有り難うございます。
>市民クリスマスを催された郡山司教は、
市民クリスマスの主催者はボクではありません。「鹿児島キリスト教会連合」という名の下に、市内の牧師・神父が音頭をとっています。毎年実行委員長が交代します。今年はカトリック教会担当で会場がカテドラルになっただけです。念のため。
ともあれ、皆さんの怒りが相当のものであることを知って驚いています。こちらでは、「たとえそうであっても、いや、だから『それでも、喜び・希望・感謝』(ボクのモットー)なんです」という信者もいたりします。「ウーン・・・」がボクの反応ですが。
ボクは、人を罰したりとか、とがめ立てが苦手なので。みなさんがそんなにも心配し、怒り心頭なのは確かに心配なことには違いないのですが、「小さくされた」方々が神父さんのお陰で元気になっているのも事実のようなので・・・。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2007年01月03日 20時11分
彦左衛門曰く:

 『聖母がローマの兵士の子供を生んだと言う話は、古代の反キリスト教、
キリスト教誹謗文書に出て来る。古代と言っても、
マタイ福音書の御降誕物語が一世紀のおそらく70、80年代に、それまで
の教会の伝承をもとに書かれてから、ずっと後である。
 この文書の名前、小生残念ながら失念。たしかユダヤ教系アラム語の文書だったと思う。』

  以上に関してご教示をある人から頂いた。
 聖母がローマ兵の子供を生んだと言う話は、2世紀中葉以降の人物、ケルソス(ラテン名、Celsus)の「真理の言葉』と言う著書に初めて出てくる由。
  
  調べて見ると、このケルソス、当時発展、躍進を続けるキリスト教に対し、これに反対する異教側の理論的指導者を買って出た人物。福音書の提示するキリストの人物像について、やれその奇跡は信じるに足りないとか、何とか、その他色々難癖をつけているのだそうだ。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2007年01月03日 20時18分
彦左衛門です。
 前前便の Celsosについて。彼の反キリスト教、キリスト教誹謗文書『真理の言葉』は、そのものとしては残っていません。
その内容が知られているのは、3世紀前半最大の
キリスト教神学者、教父オリゲネスが、この本を取り上げ、そこから引用しつつ、反論を加えているからです。

そのオリゲネスの書は『 ケルソス反論 Contra Celsum』と言い、これは教父全集などで、我々も今日読むことができます。残念ながら小生読んでいないのですが。

 聖母がローマ兵の子供を孕んだと言う話、古代ユダヤ教系アラム語文書に初出と言うのは、小生の記憶違いです。慎んで訂正、撤回します。

  但し、タルムードのどこかにその話が出ているとは聞いていますが。勿論ケルソスあたりからの孫引きです。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 H.Suto 投稿日時: 2007年01月03日 21時05分
司教様
私は「本田神父さんにはかなり厳しい・・」とは思っていません。
彦左衛門さんが言われるように、対処なさるのが教会を指導なさる立場としては当然だと思います。 本田神父がカトリック教会の神父でなければ何も言いません。 彼はカトリック教会の神父として反カトリック教会の話を公にしているのではないでしょうか?

「「小さくされた」方々が神父さんのお陰で元気になっているのも事実」でしょう。
それだからといって、本田神父の言動が許されるものでは無いと考えます。
教会を中から崩壊させようとする力には厳然と立ち向かわれることを期待いたします。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 塩梅 投稿日時: 2007年01月05日 01時03分
>「『小さくされた』方々」

本田神父様のこの造語に怒っている…身障者は多いです。

身障者だけでなく、心を病む方や経済的なことなどで悩む「弱者」を指してのようですが、
「じゃあ、自分は何なんだ?」と問い返したいです。言われた側にしてみれば、屈辱です。
変な隠語を拵えて、私達の存在を自分の都合次第でもてあそばないでいただけないかと、
思っています。あってないようなものかも知れないけど、沽券に関わるくらいに思ってます。
主なる神の前には、健康かつ何不自由なく暮す人の魂も、そのどれかに恵まれなかった人の魂も
同じではないのでしょうか?個々に主に与えられた命と身体、そして情況を、出来うる限り
自立した状態で(必要なところは助けていただく必要ありますが)精一杯に生きることが、
誰にでも与えられた使命と存じます。変なところで特別扱いを頂いてしまえば、例えば、
大人にならなくてはならないときに大人になれません。自立できる人も出来ません。
私達の人生に関わることをやりがい・生きがいにするのは、医療や福祉の仕事をされている方々の
健全なプロ意識に起因するものなら悪くないです。

しかし、人権屋さんや宗教屋さんのお神輿に乗っかるのは御免蒙ります。

かなしみ、うれいに、イエズス、マリア、ヨゼフ♪

投稿者 ま・ここっと 投稿日時: 2007年01月05日 01時25分
こんにちは、郡山司教さま。
私は幼稚園から高校卒業までカトリックの学校で育ち、都内の教会の日曜学校リーダーもつとめさせていただきましたが、いずれもクリスマス会では聖家族に関する聖劇が行われるのが習慣でした。学年を縦割りにしての行事ですが、OFMの本田神父さまのお話のまま自分で演じるのも、観劇するのも、子供に教えるのも躊躇われるものだというのが私における疑問点です。日曜学校にいた頃、信者さんのご父兄との面談でご自身がおじいさんになったら孫の枕元で聖書を読んで聞かせるのが夢だ、と言われたことも思い出しました。私がおばあさんになって孫に本田神父さまから聞いたままの話をすることができるのか?・・・恥ずかしくてできません。クリスマスは世界中の老若男女がイエズスさまのお誕生をお祝いできるのに、未成年向けと成人向けの話に分かれてしまうのは共に祝えなくなってしまうような気がします。これは悲しいです。これから日本のカトリックがどうなっていくのか知る由もありませんが(自分勝手な言い分なら)、母校や教会学校の聖劇では昔ながらの素朴な聖家族の話が演じ語り続けられて欲しいです。聖堂内のクレシュ(イタリア語のプレセビオ、馬小屋の様子を表した飾り人形)の様子もオトナしか覗けなくなっちゃう置物になっちゃったらどうしましょう?・・・と、つい先日も子供にクレシュの説明をする親の姿を見たばかりなので心配になりました(笑)。

郡山司教さまはこのエントリーをご覧になりましたか?

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20061218/1166453780

鹿児島教区に籍を置くOFM第三会員の方が司教さまのエントリーについて書かれたものです。
ここでのコメントを拝見すると、本田神父さまのお話は同志社神学部では必修事項なのだそうです。
上智の神学部でも必修になっていたらどうしましょう!です。

郡山司教さまからのお返事をこうして拝見できてとてもうれしかったです。ありがとうございました。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 郡山健次郎 投稿日時: 2007年01月05日 08時45分
ま・ここっとさん
本田神父さんが何を言おうと、学者の意見に過ぎません。教会が伝統的に継承してきた「イエスの物語」は私たちの信仰のふるさととして不変です。聖書は確かに学問の対象となります。けれども、一般の私たちは、教会が、「今後、本田神父さんの意見に従って下さい」と宣言しない限り、これまで通りで行くべきであって、動揺する必要はないのです。ちなみに、今回の皆さんからの反応については、フランシスコ会本部にお知らせして、皆さんの投稿を読んで下さるように案内しました。
塩梅さん
「小さくされた人々」という造語がそんなにも皆さんに不快感を与えていたことに驚きました。本田神父さんと直接対話できたらいいと思いました。

>私達の人生に関わることをやりがい・生きがいにするのは、医療や福祉の仕事をされている方々の健全なプロ意識に起因するものなら悪くないです。しかし、人権屋さんや宗教屋さんのお神輿に乗っかるのは御免蒙ります。

個人的には胸がすく思いです。こうした声はゼッタイ貴重です。声を大にして言って下さい。機会をみて何かの時(司教会議とか)ボクも言いたいと思います。

「他人に小さくされた人」と「自分から小さくなる人」

投稿者 ま・ここっと 投稿日時: 2007年01月05日 15時19分
郡山司教さまのお言葉で眉間の縦じわが緩みました。ありがとうございます。
「小さくされた人々」についてですが、1980年頃だったか「小さなひとびとの、ひとりひとりを見守ろう」という典礼聖歌があり、あれを歌唱するとなぜかうなだれて聖堂を出るという心持になったものです。
カトリックではしばしば「身を低める」という話が出ますが、「小さくされた」という言葉を改めて見ると「他人によって小さくされてしまった」のであって自分で「小さくなった」のではありませんよね。私はマリアさまの謙虚さはご自分から「小さくなった」と思うのです。他人に「小さくなれ」と言われてガブリエルの前であの言葉を発したとは思えません。傲慢は神さまが悲しむ態度ですから他人から「改めよ」(ここでは「小さくなれ!」でしょうか)と命じられてもいたしかたありませんが、傲慢に至らない心を持つ人であれば自分から小さくなる(マリアさまのように)自由は各自が持っているのだと思います。自分から小さくなるという行為もうっかりすると偽善に繫がりかねないので、このあたりは神父さまやシスターやカトリックに好意を持ってくださる方々との交流でバランスを取れたらいいなあ、とも思います。傲慢と謙虚は永遠に個人の心の中で続く葛藤でしょうし、おそらく良心が行司役になりますか?

郡山司教さま、今こうしてインターネットでお話できることで平信者(← もしかして死語?(笑)のバランスを見極め、安定に導いてくださいませんか?

Re:のんびり・サンデー

投稿者 あんとに庵 投稿日時: 2007年01月06日 00時04分
ま・ここっとさんに紹介されたブログ主です(^^;いやぁ。
鹿児島教区民でありながらして、南関東地区のフランシスコ会第三会員です。宜しくお願いいたします。

本田神父様の言葉を切り取って聞いたならば確かにドン引きする話です。とはいえ神学世界にはさまざまな解釈もあり、その一つに過ぎないものでもあるし、まぁ本田神父様はえてして爆弾投げるのがお好きな方なので。。。。怒る人がいるのも当然でしょうね。

カトリックが揺籃してきた神学的世界はペリカン師がいう「伝統」(つまり「伝統主義」ではない)数多の先人達が伝えてきた美しき伝承によって構築されてきたもので、そうそう揺らぐものでもないし、本田神父の一種破壊的にも思える逆説的な言論すら、それに飲み込まれていくでしょうね。

「小さくされた」というのは解放の神学の流れでは社会的弱者に当てられ、それはある種の階級的な構造をあぶりだすものですが、階級的思考は「敵」と看做すものを生じせしめやすいので、まぁ皆様がそれは危険だと思うのも無理はないし、また人の固有性を考えるとき、皆様がおっしゃられる通り、はたして「弱者」を弱者としていいのか?という疑問が生じるのも無理はない。マイノリティの固有の文化を「小さい」と評するのは確かに彼らの固有性を「小さい」と低めた視点で看做すことになりかねないですね・・・しかしミノーリス(小さき)という言葉に込められるのは、自らに問うべきものであるというのはま・ここっとさんの仰る通りではあると思いますし、また、ここでは「ミノーリス」という言葉に込められたフランシスコ会の伝承を見ていかないといけない場面ではあるでしょう。「伝承」が告げるものをはしょってしまって結論を出すのも早計かもとは思っております。

(まぁ、自由主義神学も過ぎると過激だからなぁ・・・。とはいえそれを超えた「信」こそ問われてくる部分でもありますね。それはブルトマンはじめ非神話化していく神学の流れの中でも重要な要点になっていくと思いますけど。結局「信」に回帰していくといいますか)

司教さま、有難うございます。

投稿者 塩梅 投稿日時: 2007年01月07日 15時53分
一つの言葉へのコメントに、お返事いただけて嬉しかったです。(ノд・。)

本当にもしも、本田神父さまに伝わりご理解を頂けたらと思うこと、言葉にすると上手くないかも知れません。だけども、困難を受けいれて、自分の出来ることを考えて、そして世の中とのお付き合いを真剣に考えている障碍者は増えています。
医療やリハビリ技術の発達、介護技術や介護用品の充実で、私たちが自立して出来ることは少しずつ増えています。それでも「障碍者であること」で健常の方々の手をお借りすることはありますし、障碍そのものを何とか出来ないことのほうが多いですが。ここ近年、一般の方々の意識向上もあって、外出の際、随分とお手をお借り出来るようになって、感謝しています。

でもそれを「当たり前だ」と思ったり、「障碍者であること」を逆に利用してしまう人も少なからずいるのです。その時点で自分の傲慢に気付いて反省できればいいのですが、『弱い人だから注意しちゃあいけない』と思っている人や事なかれ主義の人は多いので気付くチャンスが少ない。

そういう人を利用しているのが、「政治団体」や「宗教団体」です。
障碍の程度によっては、自宅での生活が出来ずに育つ方も多いですし、養護学校が寮制でないともたなかったりします。自宅で過ごすにも、家族にかなり負担をかけているのを知っています。だけど、そういう弱みにつけこんで、私達の生活に自分たちの主張を押し付けるのを止めて欲しいんです。
そういう人についていけば、自分の面倒を見てもらえる、と思ってついていく人もいます。それは、個人のことで仕方ないけど、そういう団体に入ればその人の「個」が段々消えていって、その人は「団体のスピーカー」になっちゃいます。それに気付いて離れていこうにも団体側に生活のケアを頼ってしまうから、足抜けできない。
教会だと、神父さまやシスターが「善意で」着手してくださる。だけどお考えとしては「洗礼まで」なんです。あとは教会の仕事だからということで、ほとんどは素人である信徒さんがそれをされることになります。でも、信徒さんにも生活があります。私達としても、職業でしている方の方が頼み易いことが多いです。そういうことですれ違いが積み重なって、教会と切れてしまうことも多いのです。

社会的弱者と言われる側に、興味を持っていただくことは感謝するべきことなのですが、本当に助けようと思ってくださるなら、私達も「成長したい・出来るだけ自立したい存在」でもあることを
忘れないでいただけないか、と切望しています。同じ人間と扱って下さるのであれば、「守る」段階以上のニーズが今はあることをお考え願えましたら、幸いに思っております。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2008年09月27日 21時23分
まここっとという方は、子供たちの聖劇が未成年向けと成人向けの話になってしまう事を嫌悪すると。そんな単純なレベルで善し悪しを論じるような事ではない。
そんな可能性は皆無だろう。各教会の日曜学校リーダーは、そこまで馬鹿ではない。
そんな事よりも、問題なのは、聖書・聖なるマリア様への冒涜を神父である聖職者が信徒へ語っているという事実なのだ。
郡山神父様の「皆さんの怒りが相当のものであることを知って驚いています」
「ボクは、人を罰したりとか、とがめ立てが苦手なので。「小さくされた」方々が神父さんのお陰で元気になっているのも事実のようなので・・・。」というお言葉に私は驚きます。
小さくされた方々がど釜が崎の浮浪者を指すのかどうかは存じませんが、それでは、本田神父の言葉に傷つき嘆き、教会に幻滅し体調まで壊す敬虔な信徒たちが元気をなくすことは、
問題ではないのでしょうか。郡山神父様が御自身が苦手だとかよりも真に信徒の事を思うならば、行動するべきではないのでしょうか。
また、あんとに庵という方は、宣教に命を賭けた人々の事をゴキブリ呼ばわりするような記事を書かれていますが、宣教師をゴキブリと例えるのと、イエス様をレイプの子と例えるのも、同じ様に酷い事ではないでしょうか。だから、本田神父に共感するのでしょうか。
ゴキブリという発言も撤回しなければ、あんとに庵さんもフランシスコ会から破門でしょう

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2008年09月28日 01時11分
郡山司教さま、こんにちは。

本田神父さまの発言は全世界のカトリック信者の信仰を冒涜する卑劣極まりないものです。

フランシスコ会の司祭であっても、大阪教区内で活動される方であっても、鹿児島教区内で異端の神学を説いたことが事実である以上、鹿児島教区長である郡山司教さまは信者を異端者の攻撃から守る義務があります。それはヴァチカンから託された極めて重大な義務です。

羊飼いは狼から襲われる羊を守ります。「あの狼は良いところもある狼だから問題ない」と言い、羊を見殺しにする羊飼いは最低です。

「(本田神父さまが)ますます先鋭化しているのが怖かった」と客観的に描写しているのはちょっと無責任ではないでしょうか。私は今、生まれてはじめて聖職者の、しかも、うんと偉い方に勇気をふりしぼって意見しています。もちろん、郡山司教さまは大好きです。このブログも大好きです。でも、こういう時に相手に気遣って黙って見ているだけなのは教皇さまに忠実な司教さまとはいえないと思います。私の学校はミッションスクールですが、信者の友達はみんな本田神父様の卑劣な言動を知って心を痛めています。

釜が崎で虐げられている人たちに親切な行動をしているからといって罪が帳消しになるわけではありません! こんな単純なことは高校生の未熟な頭でも理解できますよ!! この神父様は信者でない人にも平然とご聖体を授けるような方です。破門の一歩手前のような行動をためらいもなくしている方なんです。

 ご聖体の問題は大阪の司教さま二人にお任せしてもよいと思います。(お二人ともあまりあてにならない方のようですが)でも、私が尊敬する郡山司教さまは少なくともマリア様レイプ説については、厳しく取り締まる責任があるはずです。違いますか?

大阪で反カトリック的な活動(※たとえ動機や目的が良いものであったとしても)をしている人から信者を守るのは大阪の司教様の役割です。でも、反カトリック活動家がご自分の管轄なさる教区に入り込んできて、同じような悪さをやらかした場合、ご当地の司教さまも(人と対立するのは嫌なことでしょうが)教区長として、どんなに辛くても、どんなに嫌な役回りであっても、命がけで信者を守る義務があるのです。

この一件以来、私は何度も泣き、毎晩、枕を濡らしました。自分なりに教会組織について研究した結果、わかったことは次の結論です。

郡山司教さまはフランシスコ会の管区長さまと大阪の司教さまに、「本田神父さまが一生涯にわたり二度とそのような異端説を口にしないように徹底的にご指導下さい」と強い態度要請する必要があります。これがもっともカトリックの伝統にのっとった措置であると思います。もしこの解釈に間違いがあれば、どこがどう間違っているのが論理的にご指摘下さい。

これだけはどうしても言わなきゃと思い、大変失礼なことを言っちゃったかもしれませんが、私のコメントにもし無礼があったとしたらどうか許してください。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2009年03月15日 23時06分
本田神父を批判するなら行いにおいて彼より上でなければならない。
ドグマなど、どうでもいい

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2009年09月13日 20時30分
郡山さんや、郡山さんを擁護する人たちに、人の痛みが分かりますか?

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2009年10月18日 21時49分
マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
ルカ福音書無視の聖書学者モドキもそれを止めさせる権威を神から授かりながら行使しない司教様も同じ誤謬のバラマキを担っています。お忘れ無き様お願い致します。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 西日本の信徒 投稿日時: 2009年11月15日 15時48分
私は本田神父さまの珍説は彼に限ってゆるされるものであると思います。
理由は多くの人がそれは彼の空想であり無責任な放言と理解しているからです。
本田神父さまの自説は珍説であってバチカンの教えではないということを皆が分かっていればいいのだし、その程度で躓く人は新興宗教にでもなんにでも躓くと思います。

それに教会は本田神父さまを認めていますし、本田神父さまも教義についての論争など教会としていないと思います。
だから破門されていないのです。
何が真実かを見極める目を持つべきです。
そうすれば本田神父さまの本質がすべて貧者救済のためであることが分かると思います。

神父さまは本田神父一人ではありません。
まともな教義は他の神父さまに聞けばいいと思います。
彼は布教もなさらないし、信者相手の正しいミサもあげていませんが
それでもいいと思います。
司祭は自分一人でも正しいミサをあげていれば良いのですから。
あとは大いに貧者救済をなされば良いと思いますし、教会も信徒もそのために便宜を図ればいいのではと思います。

本田哲郎師の視座について

投稿者 Angela 投稿日時: 2011年04月10日 23時01分
先月、黙想会の指導司祭として本田師が来られました。事前に友人が「釜ヶ崎祈りの家」で本田師が使われているミサの式次第を送ってくれました。式次第を眺めております時はなるほどこのような式次第も釜ヶ崎という地域性を考慮すればあり得るのかもしれない、分かりやすいかもしれないし馴染みやすいかもしれない、と感じました。当日の講話を聞いておりますとある意味では非常に本質的なことをおっしゃっているとも思いました。ただ、私が非常に興味を持ちましたのは、本田師がそこまでお考えになるのであれば何故カトリックという教団に留まり続けていらっしゃるのだろう、という点です。キリスト教には他の教派もありますから、改宗されることも可能なはずです。それでもなおカトリックの司祭として信仰を守っていらっしゃるその原点を知りたいと思いました。講話の後、その疑問を本田師に投げかけてみましたが、懇親会もありましたのでお話を切り上げざるを得ず私の疑問は解決しないままです。続きは釜ヶ崎で、ということです。本田師の聖書学者としての独自の視座に基づく解釈はある意味その通りかもしれません。「ただし」、カトリックが初代教会から守り続けている絶対的なもののひとつ、秘跡についてどうお考えなのかを知りたいところです。釜ヶ崎ではご聖体を信者、未信者の区別なしに皆に平等にさずけている、とのことです。イエス様が生きられた時代にパンを与える時に信者か未信者かを訪ねられたりはしなかった、というのが本田師の解釈です。う~ん、単純に日本語訳された聖書の文字面だけを読めばそうですね。では、秘跡としてのcommunioは何なのでしょう?というより、どう解釈されているのでしょうね?そこが、私が最も興味を持った点です。秘跡をもし否定されるとすれば、カトリックである必要はないでしょうし、なら何故?と最初の疑問に戻ります。師の視座の是非以前にその答えを知りたい、というのが現時点での本音です。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 koriyama 投稿日時: 2011年04月11日 22時30分
Angelaさん
ボクのブログを読んでくださってありがとうございます。釜ケ崎のミサは安田司教さまにお許しを頂いていると聞いたことがあります。釜ケ崎典礼というかあそこだけで赦されていることのようでした。ずいぶん以前のことですが、司祭団の黙想会で話された記憶があります。

本田師の視座について

投稿者 Angela 投稿日時: 2011年04月13日 23時21分
司教様
ありがとうございます。Ken's Pageを作成された方がこのブログを紹介してくださいました。Facebook友のことです。なるほど、そうなのですね。本田師のお話は古い信者さん達には完全にアレルギー反応を引き起こしていました。私はアレルギーもなく、否定的にも全く感じませんでしたが、とても興味を持ちました。もし、師のお話が新教の牧師先生のお話であれば皆とても納得していいお話だったね、となったかもしれないと思います。とても本質的なことを話されたと思います。要は「立ち位置」の問題のような気がいたします。カトリックという教団の教理から見ればそこにはいくつかの疑問が出てくるかもしれません。でも、新教の教義から見れば当たり前のお話のように思えました。そこで、私が少し落ち着いたら一度釜ヶ崎まで出向いても師のお話をもう少しお聞きしたいな、と思っているのはやはり「何故その立ち位置を変えずにカトリックの教義に留まっていらっしゃるか」という本質です。先日の1,2時間のお話からだけは見えない、何かがきっとあるに違いない、と思えて仕方ないのです。単にカトリックの教義に反発していらっしゃるだけなら、きっと立ち位置をとっくにおかえになっていたように思えるのです。あれだけ力強い方ですから。その「何故」がどうしても知りたい!!と黙想会以来感じています。秘跡についてどうお考えかについてもお聞きしてみたいですね。師はそのような、あまり司祭には投げかけられないような質問や疑問でも素直に投げかけることが出来る、人を受け入れる心もお持ちの方でした。賛否両論、喧々囂々、司教様方はハラハラドキドキの師ですが、今年の黙想会はそれはそれとして意味のあるものだったと思いました。

洗礼名と霊名について???

投稿者 Angela 投稿日時: 2011年04月13日 23時41分
司教様に教えていただきたいことがございます。そろそろ洗礼式が近づいてきましたが、先日こんなことがございました。ある志願者の方が洗礼名をどちらの聖人からいただこうか、まだ迷っていることを聞いた信者さんが、その方に「二つ洗礼名をもらえば?」と説明もなく告げたそうです。志願者の方からそのような話を聞いたけど、と聞きまして、そう告げた方に「洗礼名と霊名のことですか?」と尋ねましたら「???」、「洗礼名と堅信名のこ意味だけど」、「???今はなんか洗礼名は複数でもいいのよ」とだけ。。。モデラトールは志願者には「では、もう一つは堅信名ということで」とおっしゃったそうです。でも、当然のことながら志願者の方はそこの意味は全く分からないままでした。で、モデラトールにそのことを尋ねてみました。モデラトールから「カトリック教会のカテキズム」の「キリスト教的名前」の2156に洗礼名のことが書かれている、複数名がダメとは書いていないから複数でもいいのでは、堅信名の記述はなかった、とのメッセージが来ました。2156から2159を読んでみますと、2158に「神は一人ひとりを名指しでお呼びになります…」と書かれていました。もし、神様が一人ひとりを名指しでお呼びになるなら、普通の親が子供の名前を呼ぶ時にあれこれと複数の名前では呼ばないから、やはり洗礼名は常識的に考えて一つなのではないか、という疑問がわいてきました。「ダメ」書いていない=「OK」という解釈も極端に思えました。カテキズムや憲章には「ダメ」といちいち記載されていなくても、すべきでないことはたくさんありますでしょ。
霊名(堅信名)については、以前に講座でその質問をしました時に、堅信名というのは日本やインドなどアジアの一部の国でだけ形式化したもので本質的なものではないのですよ、という説明をいただいたことがあります。なので、カテキズムには記載がないのでしょう、と思っていますが、洗礼名のことは実際のところどう解釈するべきものなのでしょう?志願者の方にきちんと説明して、理解したうえで洗礼名と霊名を決めていただきたいと思っています。堅信名が本質的なものでないのであれば、どういう経緯で日本や一部のアジアの国ではそれが形式化したのでしょうか?色々調べてみましたが説明出来るだけの答えに辿りついていません。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 koriyama 投稿日時: 2011年04月17日 20時17分
Angelaさん
答えみたいなものを昨日の”教会とスポーツ”に書きました。

本田哲郎師の「石切」説は誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2011年12月21日 13時18分
聖ヨセフの職業は、マタイ福音書13章55節ではテクトーンというギリシア語で表現されていますが、同じ言葉は七十人訳ギリシア語旧約聖書のエレミヤ書10章3節にも登場します。
ところが新共同訳聖書を見ると、マタイ福音書では「大工」という日本語になっている一方、エレミヤ書の方は「木工」となっています。前後の文脈からその職業が木を材料として扱っているのが明白だからです。
つまり本田哲郎師の「イエスやヨセフは石切」説は、ここで否定されます。
石切を意味するギリシア語の単語はラトモスであって、テクトーンではありません。
列王記上5章や歴代志上22章それに歴代志下2章に登場する「石切」たちは皆、ラトモスというギリシア語で、七十人訳聖書に登場します。

詳しくは次のブログを参照して下さい。
http://web.me.com/cmsonk1948/Joseph/St.Joseph/St.Joseph.html

本田哲郎師の「石切」説は誤り(2)

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年01月18日 00時53分
先に「石切を意味するギリシア語はラトモスであって、テクトーンではありません」と書きましたが、ラトモス(latomos)という単語は、las(石)とtemno(切る)という二つのギリシア語に由来する合成語で、実はこちらこそ、まさに本田哲郎師の持論である「石切」そのものに該当する表現です。
マタイ福音書やマルコ福音書にはラトモスという単語そのものは登場しませんが、そこから派生した表現は両方の福音書に登場します。
ラトモス(latomos:石切)の動詞形はラトメオー(latomeo:石切りする)ですが、この動詞から変化した表現が、マタイ福音書27章60節(elatomesen:「掘った」)とマルコ福音書15章46節(lelatomemenon:「掘って作った」)の二か所に用いられています。
当時の墓は、岩を掘って(石切りして)作られていたためです。

福音書の著者たちは、明らかにlatomos(石切)という単語を知っていたということになります。
だとすれば、イエスやヨセフが本当に石切だったとしたら、テクトーン(tekton)ではなくラトモス(latomos)と福音書に書いていたはずです。
しかし福音書にはイエスやヨセフの職業としてテクトーンという表現が用いられています。

やはり、"本田哲郎師の「石切」説は誤り"と言わざるを得ません。

本田哲郎師の「石切」説は誤り(3)

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年02月07日 12時59分
本田哲郎師の紹介するヘブライ語「ホツビーム(採石労働者)」(『聖書を発見する』(岩波書店)89ページ)が、七十人訳ギリシア語聖書で実際にどのように翻訳されているかを検証してみると、興味深い結果が確認されます。
採石労働者を意味するヘブライ語が登場する旧約聖書の箇所は、列王記上5章29節、列王記下12章13節、歴代志上22章2節、同22章15節、歴代志下2章1節、同2章17節、同24章12節、エズラ書3章7節の八か所です。
このうち、歴代志上22章15節を除いた七か所でラトモス(石切)という訳語が当てられており、歴代志上22章15節では「オイコドモイ・リトーン(石を扱う建設労働者たち)」という表現で訳されています。
つまり、主イエスや聖ヨセフの職業であるテクトーンという訳語になっている箇所は、どこにも存在しない、ということです。
基本的に、採石労働者はギリシア語ではラトモスという単語で表現されていたわけです。

本田師はこの「ホツビーム」について、「すなわち石や木を刻む人たちというわけです」などと書いていますが、問題の箇所の「ハラシェ」の前のヘブライ語「ヴェ」を、「それは」とか「すなわち」と解釈するからおかしくなるのです。ここは素直に、英語のandの意味に訳せばいいのです。
正解は、「ホツビーム(石切たち)と、石や木を扱うハラシーム(職人たち)」です。
採石労働者(ホツビーム)とは、神殿建設に必要な作業のうち、採石場で石を切り出して石材を準備するところまでを担当する人々のことです。
そして、準備されたその石材を使って、神殿など実際の建設現場で建築に携わる人々が、「石を扱うハラシーム(ハラシェ・エベン)」です。
神殿には、石造建築の部分と木造建築の部分とがありました。

ちなみに、問題の歴代志上22章15節において、七十人訳ギリシア語旧約聖書は、ヘブライ語の「ホツビーム(石切たち)」と「石を扱うハラシーム(職人たち)」をひとくくりにしてギリシア語の「オイコドモイ・リトーン(石を扱う建設労働者たち)」と翻訳し、ヘブライ語の「木を扱うハラシーム(ハラシェ・エーツ)」の方は、「テクトネス・クシュローン(木工職人たち)」というギリシア語に翻訳しています。
ここで初めて、「テクトネス」つまりテクトーンという単語が用いられました。
日本語訳で「採石労働者、石工、大工」とあるくだりです。
ホツビーム=採石労働者、石を扱うハラシーム=石工、木を扱うハラシーム=大工です。

このくだりでテクトーンとギリシア語で呼ばれているのは、木工職人だけです。
そして、マタイ福音書やマルコ福音書は、主イエス・キリストや聖ヨセフの職業をテクトーンと呼んでいます。

本田哲郎師の「石切」説は誤り(4)

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年03月05日 12時10分
師の『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)140ページには、「でも、ほとんどの聖書学者が、イエスの時代にはかなり旧約の習慣が崩壊しており、よほど余裕のある人でないとエルサレムの神殿参りをすることはなかったといいます。」とか、「じっさい、罪人と見なされた石切のせがれイエスには、学問をするゆとりもチャンスもなかったはずです。」などと書かれています。

しかし、本田師はこのように主張しますが、『ヨハネによる福音書』はイエスがエルサレムの神殿参りをしていたことを五回も記述しています。

・カナの婚礼の後の過越祭(2章13節)
・「ユダヤ人の祭り」(5章1節)
・仮庵祭(7章2〜10節)
・神殿奉献記念祭(10章22〜23節)
・御受難の際の過越祭(11章55節、12章12〜13節、共観福音書にも記述あり)

『ヨハネによる福音書』は、「学問をするゆとり」すらなかった(と本田師がいう)イエスが、「よほど余裕のある人でないと」「することはなかった」(と本田師がいう)エルサレムの神殿参りを実際には何度も行なっていたことを、これだけ記録していたのです。

ちなみにヘブライ大学教授で第二神殿時代のユダヤ史が専門のS・サフライ氏は、その講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)184~185ページで、当時のエルサレムへの巡礼事情について本田師とは相当隔たった見解を述べています。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2012年03月13日 17時52分
本田哲郎さん、イエスの精神に立ち返ろうとしている本物のクリスチャンだと尊敬します。
本当に弱者の側にイエスはいるのだという思いで発言しぞうをているんだと感じます。
それがカトリックの立場でないとするなら、死に行くに行く人に、改宗をせまることなく当人の信仰する宗教の聖職者を呼んだマザーテレサも破門でしょうか?
半田哲郎さんは目の前にいる世の中から打ち捨てられた人々の側に立ってイエス姿を再発見してるのだと感じます。この人を破門にしてしまうのであればカトリック教会こそイエス・キリストから破門されるでしょう。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2012年03月13日 17時52分
本田哲郎さん、イエスの精神に立ち返ろうとしている本物のクリスチャンだと尊敬します。
本当に弱者の側にイエスはいるのだという思いで発言しぞうをているんだと感じます。
それがカトリックの立場でないとするなら、死に行くに行く人に、改宗をせまることなく当人の信仰する宗教の聖職者を呼んだマザーテレサも破門でしょうか?
半田哲郎さんは目の前にいる世の中から打ち捨てられた人々の側に立ってイエス姿を再発見してるのだと感じます。この人を破門にしてしまうのであればカトリック教会こそイエス・キリストから破門されるでしょう。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2012年03月13日 17時55分
本田哲郎さん、イエスの精神に立ち返ろうとしている本物のクリスチャンだと尊敬します。
本当に弱者の側にイエスはいるのだという思いで発言をているんだと感じます。
それがカトリックの立場でないとするなら、死に行くに行く人に、改宗をせまることなく当人の信仰する宗教の聖職者を呼んだマザーテレサも破門でしょうか?
半田哲郎さんは目の前にいる世の中から打ち捨てられた人々の側に立ってイエス姿を再発見してるのだと感じます。この人を破門にしてしまうのであればカトリック教会こそイエス・キリストから破門されるでしょう。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2012年03月13日 17時55分
本田哲郎さん、イエスの精神に立ち返ろうとしている本物のクリスチャンだと尊敬します。
本当に弱者の側にイエスはいるのだという思いで発言をているんだと感じます。
それがカトリックの立場でないとするなら、死に行くに行く人に、改宗をせまることなく当人の信仰する宗教の聖職者を呼んだマザーテレサも破門でしょうか?
半田哲郎さんは目の前にいる世の中から打ち捨てられた人々の側に立ってイエス姿を再発見してるのだと感じます。この人を破門にしてしまうのであればカトリック教会こそイエス・キリストから破門されるでしょう。

本田哲郎流「〜の子」論の誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年03月17日 09時33分
本田哲郎師の『聖書を発見する』(岩波書店)には、次の記述があります。

・「そして、『あのマリアの子』とは何を意味しているのか。マタイ福音書の系図にもあったように、すべて『だれそれ』の子という言い方をされていて、しかも必ず父親の名前しか使わないのがふつうです。これはユダヤの世界だけではなく、イスラムの世界でも同じです。つまり、それが名字代わりなのです。『だれそれの子』が名字代わりになるのは、たとえばウサマ・ビン・ラディン、ウサマは名前で、ビン・ラディンは名字です。ビン・ラディンは、ヘブライ語ならベン・ラディンで、ラディンの子ウサマというわけです。」(90ページ)

・「ですから、『マリアの子』とはふつうには言わない。それは、父親が分からないということを、言外に言っているようなものです。『罪の子』であるとしか、村人たちは見ていなかったということです。」(91ページ)


次に、上記の本田発言が誤りであることを端的に証明する旧約聖書の箇所を列挙します。

・「ハギトの子アドニヤ」
 (サムエル記下3章4節、列王記上1章5節、同1章11節、同2章13節、歴代志上3章2節)
  ヘブライ語原文では「アドニヤ・ベン・ハギト」。
  アドニヤの父はダビデ、母はハギト。
  
・「アビタルの子シェファトヤ」
 (サムエル記下3章4節)
  ヘブライ語原文では「シェファトヤ・ベン・アビタル」。
  シェファトヤの父はダビデ、母はアビタル。
  
・「マアカの子アビヤ」
 (歴代志下11章22節)
  ヘブライ語原文では「アビヤ・ベン・マアカ」。
  アビヤの父はレハブアム、母はマアカ。

・「マアカの子アブサロム」
 (サムエル記下3章3節、歴代志上3章2節)
  ヘブライ語原文では「アブサロム・ベン・マアカ」。
  アブサロムの父はダビデ、母はマアカ。

(上記の日本語はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によりました)


ちなみに、ウサマ・ビン・ラディンの父親はムハンマド・ビン・ラディンという人だそうで、「ビン・ラディン」とは「ラディンの子孫」という意味だそうです。
従ってウサマ氏は実際にはラディン氏の子ではなく、ムハンマド氏の子だったわけです。

もっとも主イエス・キリストも、「ダビデの子」と呼ばれながら父親はダビデではありませんでした。
結局のところ、中東の「〜の子」という概念は、日本人が考えているよりも広い範囲をカバーしていた、ということですね。

ルカに関する本田哲郎師の誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年03月21日 13時59分
本田師は、著書『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)139~140ページで、次のような驚くべき見解を披露しています。
 
「このルカがパウロの紹介する医者のルカだとすれば、四人の福音史家のうち、ルカさんだけが、生前のイエスと会ったこともなく、当時のパレスチナを知らなかったことになります。パウロの影響で洗礼を受け、クリスチャンになったローマ人で、しかも、ユダヤ人の聖地エルサレムから遠く隔たったローマの、離散ユダヤ人たちの中からキリストを信じるようになったグループの教会に属しています。離散ユダヤ人たちは祖国イスラエルに強くノスタルジアを持っていて、旧約聖書に書かれている規則や決まりごと、『男子は何歳になると何をする』とか『毎年、神殿詣でをする』といったことを重要視し、祖国ではみんな忠実に守っているものと信じていた傾向がある。そして、それらすべてをイエスに当てはめて、ルカはイエスの幼年物語を書いたようです。」

また本田師の『聖書を発見する』(岩波書店)154ページには、次のように書かれています。

「しかし、ルカという人は、もともとおそらくローマ人で、西欧的な発想の人です。」


福音史家の聖ルカに対して本田哲郎師は、「当時のパレスチナを知らなかった」などと書いていますが、それでは、そのルカの著書『使徒言行録』21章に次のように書かれているのは、どういうことでしょうか。

「数日後、わたしたちは旅支度を整え、エルサレムへ上って行った。」
(中略)
「わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは温かく迎えてくれた。その翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪れたが、そこには長老たちがみな集まっていた。」
 (使徒言行録21章15節、17~18節:『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注)

『使徒言行録』の中で「わたしたち」と書かれている場合、その「わたし」(同書1章1節)に該当するのは当然、著者のルカその人です。つまり、ルカはパウロに同行してエルサレムに赴いていたということになります。それなのに、この福音史家ルカに関して本田哲郎師は、いったい何を根拠にして、「当時のパレスチナを知らなかった」などと発言できるのでしょうか。
しかもルカはそこで、「主の兄弟」と呼ばれていたイエスの親戚のヤコブ及び「長老たち」と会っているのですが、この人々は、「当時のパレスチナ」の事情をより詳細に知るための情報源として、最もふさわしいと言ってよい存在でした。
またパウロとルカたちはエルサレムに行く前にカイサリアを通っていますが(21章8節)、このカイサリアもパレスチナの町です。
 
ちなみに、『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注の「ルカによる福音書解説」の「著者」の項には、福音史家ルカに関する次の記述がありますが、これは本田師の語るプロフィールとは異なるものです。ルカはローマではなくシリア出身でした。

「初代教会の伝承では、パウロの宣教旅行の同行者であり、使徒言行録の著者でもあるルカが、第三福音書の著者であるとすることで一致している。ヒエロニムス(三四〇/五〇ー四二〇年)は、それらの伝承を要約して、シリアのアンティオキア出身で、使徒パウロの弟子である医者ルカが、第三福音書の著者であると述べている(『マタイ福音書注解』序文)。」

本田哲郎師の「生いたち」論は誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年03月26日 21時39分
本田師の『聖書を発見する』(岩波書店)82~84ページには、「イエスの生いたち」に関連して、次のように書いてあります。

「イエスがどういう生いたちであったのかを見ておきましょう。マタイ福音書の冒頭にかかげられるのが、イエスの系図です。」
「このイエスの系図は、男の名だけを連ねていく、当時の系図の書き方とは根本的に違っています。そこに何人かの女性の名前が差し込まれている。」
「つまり、タマルとラハブとルツとウリヤの妻(バトシェバ)が挙げられている。この女性たちはいずれも、歴史上の汚点と見なされた事件に関係のある女性なのです。歴史上の汚点、ここに名の挙がっている女性が汚点というわけではありません。その人たちがかかわった事件が汚点だとされている。」
「そして、ルツは、イスラエルの民が敵視していた異民族モアブの女性です(ルツ記)。」
「伝統主義的なユダヤ教徒たちにとって、そういう事件は、じつは忘れたい、知らぬ顔をしたいものだったはずです。」

さて本田師はこう書いていますが、伝統主義的なユダヤ教徒たちにとって、『ルツ記』の中に書かれている事柄は、はたして本当に本田師が言うように「歴史上の汚点と見なされた事件」「じつは忘れたい、知らぬ顔をしたいものだった」のでしょうか。
実際にはそうではなかった、という根拠となるユダヤ教の伝統を、次に紹介します。

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』の「ルツ記解説」の項には、次のようにあります。

「ルツ記はヘブライ語短編物語の珠玉である。ユダヤ教聖典で「諸書」に属し、五大祝日の典礼祭儀で朗読される五巻の書をまとめた『メギロート』の冒頭に置かれている。」
「ルツは自分より悲惨な境涯にある姑ナオミの人生の伴侶となることを選ぶが、聖書の中でルツのように同性のために献身する女性は珍しい。彼女はその誠実さ故に、メシアを生み出す家系の長であるダビデの出生を準備することになる。この物語では、救いを推進していく神の介入の道具としてルツが描かれている。」
「ユダヤ教と教会の歴史の中でこの本は読み継がれ、時に応じてさまざまな光を与えてきた。家庭的な徳を教える教訓書として、親しまれてきたのはもちろんであるが、異邦人、しかも申命記23・4で主の会衆に加わることを禁じられているモアブ人でありながら、摂理に導かれてダビデの祖父の母となるルツの物語のうちに、神を信じる者たちは救いの普遍性を見た。」

もし本田師の言うように、「伝統的なユダヤ教徒たちにとって」「じつは忘れたい、知らぬ顔をしたいものだったはずです」というのが本当なら、「五大祝日の典礼祭儀で朗読される五巻の書をまとめた『メギロート』の冒頭に置かれている」などというのは、絶対にありえない話ですが、現実は本田師の見解とは違っていた、ということですね。

ちなみに、ヘブライ大学教授のS・サフライ氏は、その講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)78〜79ページで、次のように述べています。

「『ルツ記』は、短編の美しい物語です。」
「言葉遣いが非常に優美で、文学性も高く、ヘブライ文学の中でもっとも美しい言葉で書かれた書です。会堂においてルツ記の朗読に聞き入ることは、わたしのこよなく愛することの一つです。」

最後に、系図に「何人かの女性の名前が差し込まれている」ことに関して、本田師は「男の名だけを連ねていく、当時の系図の書き方とは根本的に違っています。」などと言っていますが、実際の聖書の記述を踏まえると、本田師の見解は事実に基づいてはいません。
『歴代誌上』の初めの9章までには、イスラエル人のさまざまな系図が延々と記されていますが、例えばダビデの子たちについて書かれている3章には、ダビデの子たちの母となった女性たちの名前(アヒノアム、アビガイル、マアカ、ハギト、アビタル、エグラ、バト・シュア(バト・シェバ、バトシェバ))が、適宜「差し込まれて」います。

本田哲郎師の「最初の訪問者」論は誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年03月29日 04時51分
本田師の『聖書を発見する』86〜87ページには、次のようにあります。

「誕生の時の最初の訪問者は、東の方、すなわち貧しい不毛の地からやってきた占い師だったのです。」
「『東の方からやってきた三人の博士』と、日曜学校や土曜学校でわたしたちはインプットされてきましたけれども、ギリシア語のテキストにマーゴイすなわち占い師とある。マーゴイはギリシア語ではない。当時のペルシア語で、外来語のまま、そこに使われている。ユダヤ教の中ではペルシアは異国ですし、異教徒の言葉をそのままそこへのこしているということは、そこに差別的な偏見をこめているのです。みんなが、「あんな、マーゴイのようなもの」とまゆをひそめるような人たち、そのかれらだけが馬小屋のイエスに救い主を見たのだ、とマタイは言いたいのです。」

次に、本田師の言うところの「マーゴイ」(magoi)という人々が、実際にはどんな人々であったのか、ヘロドトス『歴史(上)』(岩波文庫、松平千秋訳)467ページの「訳注」から引用します。

「マゴス(複、マゴイ)とはペルシア(本来はメディアの)の世襲的神官階級の呼称。本務はもちろん祭祀、託宣、夢占いなど宗教的な事柄であったが、政治的にも大きな発言をもっていたことは、むしろ当然であった。」

また、同書95ページには、次のようにあります。
「メディア民族の中には、ブサイ、パレタケノイ、ストルカテス、アリザントイ、ブティオイ、マゴイなどの部族がある。」

つまり、マゴイ(マゴスの複数形)とは、ちょうどイスラエル人の中でレビ族が宗教的な事柄をもっぱら行なっていたように、メディア人の中にあって世襲で宗教的な事柄を行なっていた人々であり、マゴイは託宣や夢占いなどを行なう人々として尊重され、それらを通して政治的影響力をも行使していたということです。そして、メディアがペルシアに支配されるようになってからも、ペルシア人の中でマゴイは同じ地位を占め続けた、という事実があります。

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、メディアやペルシアの宮廷で王に対して影響力の大きい助言を行なっていた、マゴイ(マゴスたち)の姿を、著作中の随所に書き残しています。

実は旧約聖書(ギリシア語七十人訳)中で、唯一『ダニエル書』だけにマゴイが登場します。ダニエル書の舞台はイスラエルではなく、イスラエル人が捕囚によって連行されたバビロンでしたが、バビロンにもマゴイに相当する神官階級が存在し、王の宮殿で助言を行なっていたのです。七十人訳聖書は彼らをもマゴイと呼んでいます(ダニエル2章2節、同10節)。
彼らはダニエル記2章で「バビロンの知者(12節、14節、24節)」「バビロンの賢者(17節)」「賢者たち(4節、5節、10節)」を構成する人々として描かれています。
バビロンの知者たちが誰一人として解釈できなかった王の「巨大な像の夢」を、イスラエル人の預言者ダニエルが解き明かした、という話の中に登場します。

つまりマゴイと呼ばれる人々は、決して本田師が言うような「貧しい不毛の地からやってきた占い師」などではなかった、ということです。

同書では、東方から星に導かれて幼子イエスを礼拝するためにやって来たマゴイを、ヘロデが「ひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。」(2章7節)とあります。
ここからマゴイが日頃から天体観測を行なっている人々だということが、読み取れます。
ヘロデは、このマゴイに「確かめておいた時期に基づいて」ベトレヘム一帯の二歳以下の男子をことごとく虐殺させました(2章16節)。

最後に、本田師は、「そのかれらだけが馬小屋のイエスに救い主を見たのだ、とマタイは言いたいのです。」と書いていますが、実はマタイ福音書には「馬小屋」は登場しません。
マタイ2章11節には「家」とあります。東方から来たマゴイが幼子イエスと出会った場所は、あくまでも「家(ギリシア語でoikia)」です。
ルカ福音書2章の羊飼いたちは、飼い葉桶に寝ている幼子イエスの姿を見ましたが、東方から来たマゴイが見たのは、既に家の中におられる聖母子の姿でした。

「誕生の時の最初の訪問者」は、東方から来たマゴイではなく、羊飼いたちです。

本田哲郎神父様

投稿者 投稿日時: 2012年03月29日 21時04分
ここでの議論を興味深く読んでおります。幼児洗礼を受けたものの教えは理解できておらず、最近になって勉強を始めて神の姿が自分なりにやっと見えるようになってきました。
本田神父様の仰ることはカトリックの正統的な教えだと思います。
釜が崎で未信者にも聖体拝領を許すのは、社会から排除されてきた人をも神は排除しないことを伝えるためではないでしょうか? 他人を弱者と決め付けるのは良くないですが、弱者を見ないのはもっと大きな罪だと思います。教義について素朴な考えを持つ人を刺激しないでも、とはじめは思いましたが、やむにやまれず、なのだと思います。安息日でも癒すことを止めなかったイエズスと同じではないでしょうか?
聖母マリアの懐妊についても、本田神父様なりのお考えがあってのことと推測します。是非、知りたいところです。

本田哲郎師の「イエスの誕生」論の誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年03月30日 22時05分
本田師は『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)で次のように書いています。

「しかも、その母は律法に背いて妊娠するような罪人マリアと見なされていたようですし、そのマリアを受け入れたヨセフも同類とされ、家族ぐるみ低辺に立たされていたイエスでした。マタイ福音書とルカ福音書のイエス誕生の物語がそのことを語っています。イエスの誕生はだれからも祝福されないものでした。」(60ページ)

「つまりイエスは父親のわからない子どもだと、当時の人たちは気づいていたということです。まして伝統色の強いベツレヘムの村は、律法に違反したカップルを、いくら親戚とはいえ許し難い、ということで排斥したわけです。その結果が家畜小屋だったのです。だから、マリアもヨセフも罪人というレッテルを貼られた状態だった。」(129ページ)

「イエスが『徴税人や罪人の仲間』といわれたとしても、それはケンカをしているときの売りことばに買いことばとしていわれたわけではなくて、その当時の社会認識として、『イエスは罪の結果生まれた子』であって、『穢れた者』としか見られていなかったということです。」(129ページ)


さて、次に上記の本田師の見解を否定する新約聖書の記述を列挙していきましょう。

実際には、イエスはヨセフ(律法上の父)の子と人々から思われており、母マリアが「律法に背いて妊娠するような罪人」と人々から「見なされていた」ことなど、決してなかった事実を示す記述(神殿への奉献)も存在します。
また『ガラテヤの人々への手紙』4章4節の「女から生まれさせ、律法の下に生まれさせた」という記述は、決定的でしょう。
同様にイエスが十二歳の時の「過越の祭り」前後の記述が示す通り、イエスとマリアとヨセフは「親戚や知人」から「排斥」された存在などでは決してなく、むしろ逆にイエスは少年時代から周囲に好感をもって受け入れられていました(『ルカによる福音書』2章52節)。
本当に母子ともども「排斥」された存在であったならば、公生活の初期に「カナでの婚礼」に招かれることもなかったはずでしょう。

(以下の引用は、全て『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によりました。)

(1)ところで、イエスが宣教を始められたのは、三十歳ころのことであった。イエスはヨセフの子と思われていた。
 (ルカによる福音書 3章23節)

(2)人々はみなイエスをたたえ、その口から出る、恵みに満ちた言葉に驚いて、「これは、ヨセフの子ではないか」と言った。
 (ルカによる福音書 4章22節)

(3)フィリポはナタナエルを見つけて言った、「わたしたちは、モーセが律法の書に記し、預言者たちも書き記している人を見つけました。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスです」。
 (ヨハネによる福音書 1章45節)

(4)「これはヨセフの息子のイエスではないか。その父も母もわれわれは知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と彼らは言った。
 (ヨハネによる福音書 6章42節)

(5)イエスはこれらの喩えを語り終えると、そこを立ち去って、郷里に帰り、彼らの会堂で人々に教えを説かれた。すると、人々は驚いて言った、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力を、どこから得たのだろうか。大工の子ではないか。母はマリアで、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。また姉妹たちもみな、われわれとともにいるではないか。いったいこの人は、このようなことをすべて、どこから得たのだろう」。
 (マタイによる福音書 13章53~56節)

(6)さて、モーセの律法に定められた、彼らの清めの日数が満ちると、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れていった。これは主の律法に、「はじめて生まれる男の子はみな、主に聖別された者である」と書き記されているからであり、また主の律法に述べられているところに従って、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽を犠牲としてささげるためであった。
 (ルカによる福音書 2章22~24節)

(7)彼は聖霊に導かれて神殿に入ると、律法の慣習に従って、両親が幼子イエスを連れてきた。
 (ルカによる福音書 2章27節)

(8)さて、両親は主の律法どおりにすべてをすませて、自分たちの町、ガリラヤのナザレに帰った。
 (ルカによる福音書 2章39節)

(9)さて、イエスの両親は、毎年、過越の祭りにはエルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になられた時も、彼らは祭りの慣習に従って、都に上った。祭りの期間が終わって、帰路に就いたが、少年イエスはエルサレムに残っておられた。しかし、両親はそれに気づかなかった。道連れの中にイエスはいるのだろうと思い込み、彼らは一日の旅を終えてから、親戚や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
 (ルカによる福音書 2章41〜45節)

(10)イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人とに愛された。
 (ルカによる福音書 2章52節)

(11)さて、三日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちもその婚礼に招かれていた。
 (ヨハネによる福音書 2章1〜2節)

(12)しかし、時が満ちると、神は御子をお遣わしになり、女から生まれさせ、律法の下に生まれさせたのです。それは、律法の下にある人々を贖い出すためであり、また、わたしたちが神の子としての身分を受けるためです。
 (ガラテヤの人々への手紙 4章4〜5節)


ところで、旧約聖書の申命記には、「主の会衆」から排除される人々として、次のような律法の規定がありました。

 混血の人は、主の会衆に加わってはならない。
 (申命記 23章3節)

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』の該当箇所の欄外の注に「混血の人」の説明として、「不法な近親結婚、あるいは姦通による私生児を指すと思われる」とあることを考慮すると、本田説と『ガラテヤの人々への手紙』の「律法の下に生まれさせた」という記述との間には、矛盾が生じます。
もしもイエスが本田師の言うように「罪の結果生まれた子」であったとすれば、申命記23章3節の律法の規定によって、イエスは神殿から排除されるべき存在となっているはずであり、そのイエスが神殿の中にいることを示す記述が福音書の中に何度も登場すること自体、明らかに矛盾している、ということになるからです。

本田哲郎師の「石切」説は誤り(5)

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年04月04日 13時18分
ウェブスター(Webster)といえばアメリカでは辞書の代名詞的存在ですが、ネット上には、英単語を入力すると、一〇以上の他言語の訳語を同時に調べることが出来るという、"Webster's Online Dictionary"という優れもののサイトがあり、無料で利用できます。

www.websters-online-dictionary.org

そこで、"quarrier(採石工、石切り工)"という英単語を入力してみます。

www.websters-online-dictionary.org/definitions/quarrier

まず、Japanese(日本語)の項を見ると、ちゃんと「石切り工」と出ましたね。

そこで、次に、Greek (transliteration)という項を見てみます。
(ギリシア文字をラテン文字に変換した)ギリシア語、ということです。
さて、結果はどうかというと、"latomos"と出ています。
やはりギリシア語の「石切」は、ラトモス(latomos)だったということです。

主イエス・キリストや聖ヨセフは、福音書によればギリシア語のテクトーン(tekton)という職業でした。ラトモスではありません。

念のため、"stonecutter"(ストーンカッター)という英単語でも、調べてみましょう。

www.websters-online-dictionary.org/definitions/stonecutter

Japaneseの項を見ると、「石工」、「石切り機」、「石カッター」などとあります。

次にGreek (transliteration)の項を見ると、
"lithotomos"、"ergatis latomeioi"、そして"latomos"などとあります。
ここでもラトモス(latomos)が出ました。

やはり、ギリシア語の「石切」はテクトーンではなくラトモスなのです。


さて、京都のあるカトリック校のニュースレターが、ネット上にあります。

www.rakusei.ac.jp/RNewsL/NewsLetter10No09.pdf

冒頭の「クリスマスのメッセージ」に、本田哲郎師の発言が引用されています。
本文10〜11行目の、「テクトーンは、ダビデ王が砕石労働者を差別的な職業として述べる時に用いた単語」という本田師の発言です。

七十人訳ギリシア語聖書は、問題の箇所である歴代志上22章2節の「(切り石を)切り出すための採石労働者」について「ラトモウス・ラトメーサイ(latomous latomesai)」という表現をしています。

sept.biblos.com/1_chronicles/22.htm

ギリシア語の「ラトモウス・ラトメーサイ」に対応する原文のヘブライ語は、「ホツビーム・ラハツォーブ」です。

interlinearbible.org/1_chronicles/22-2.htm

この「ホツビーム」は本田師が『聖書を発見する』(岩波書店)89ページで、「採石労働者(ホツビーム)」として紹介しています。
ところが七十人訳聖書の該当箇所でホツビームに対応しているギリシア語は、実はテクトーンではなく、ラトモスだったのです。

やはり、「石切(採石労働者)」を意味するギリシア語は、テクトーン(tekton)ではなく、ラトモス(latomos)だということです。
テクトーン(tekton)に関連する表現は、該当箇所にはどこにも見当たりません。

ですから実際は、本田哲郎師の「石切」説には聖書の記述の裏付けが存在しない、ということなのです。
本田師は、『聖書を発見する』90ページで「テクトーン(石切り)」などと表現していますが、以前に投稿した通り、ヘブライ語のホツビームからギリシア語のテクトーンに翻訳されている箇所など、一例も存在しません。

本田哲郎師の洗礼論の誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年04月04日 13時51分
本田師の『聖書を発見する』(岩波書店)の45~46ページには次のようにあります。

「従来、『洗礼を受ける』と訳されてきたギリシア語バプティツォマイは、バプテスマの動詞形で、身を沈める、身をひたすという意味です。洗うとか清めるというような意味はありません。たとえばギリシア語では、体を洗う(入浴)ならルーオ、手足や顔を洗うならニプト、服や手ぬぐいを洗う(洗濯)ならブリュノ、けがれを清めるならハグニツォという用語があり、聖書の中にもそれぞれの意味で使われています。バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです。」

本田師がここで言う「バプティツォマイ」(baptizomai)は、baptizoのことでしょう。
さて、本田師はこう言い切っていますが、「バプテスマ」の動詞形のギリシア語(baptizo)には、はたして本当に「身を沈める、身をひたす」という意味しかなく、「洗う」「清める」という意味はないのでしょうか。

本田師の見解は、旧約聖書の『ユディト記』12章7~9節の記述によって、否定されます。
第二正典の『ユディト記』はギリシア語で書かれています。

「そこでホロフュルネスは護衛兵に、彼女を邪魔しないように命じた。彼女は三日間、陣営に留まり、夜ごとに、ベトリアの谷に出かけ、陣営の傍らの泉で身を清めた(ebaptizeto)。泉から出て、イスラエルの主なる神に、自分の民の子らを立ち上がらせるため、その歩みを導いてくださるようにと祈った。そして、清浄な身で戻ると、夕方、自分の食事が運び込まれるまで、天幕に留まった。」
 (日本語訳は『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によりました。)

ユディト記12章7節によれば、ユディトは自分自身に対して「バプテスマ」と呼ばれることを行ないました(ebaptizeto)が、それを行なったのは「陣営の傍らの泉」でした。あくまでも「泉」であって、洗礼者聖ヨハネが後に主イエスに「バプテスマ」を行なったヨルダン川のような「川」ではありませんでした。
「泉(ギリシア語でpege)」とは、地下水が自然に地表に湧き出る所のことです。
訳語としては、「噴水」または「井戸」と言い換えることができるかもしれません。

仮に百歩譲って、この「泉」が、人が「身を沈める」ことができるほどの大きさだったと仮定したところで、実際にはそうできなかったと考えられる根拠があります。

1)その「泉」は、人々の飲料水を確保するためのものであり(7章3節、同7節、同12〜13節)、入浴は禁じられていたはずだと思われること。

2)夜中とはいえ、アッシリア軍の陣営の中で兵士たちの監視のもとにあったユディトが、何も身に着けない姿を兵士たちに見せるようなことは、ユディトが特に信心深い女性であることを考えると、ありえないと思われること。

3)「泉」の部分にあるギリシア語の前置詞(epi)は、「〜で」を意味し、「〜の中で」を意味しないこと。

「川」や「湖」や「池」などではなく「泉」では、そこに「身を沈める」ことはできません。不可能です。しかしながら、12章9節では、ユディトは「清浄な身で」戻ったとあります。ユディトの「バプテスマ」には「清め」の意味が含まれていた、ということになります。
わざわざ夜中にあえて「泉」で行なっていたということは、単なる「水」ではなく「流水」を用いる必要性があったのかもしれません。

ユディトはもちろん旧約の女性であり。この時の「バプテスマ」は、キリスト教の「洗礼」とは意味合いが異なるのはもちろんです。
ではいったい、ユディトがこの時に自分自身に対して行なった「バプテスマ」とは、どのようなものだったのでしょうか。
泉の流水を用いた「清め」のためのなんらかの儀礼、と考えるべきでしょう。
これは明らかに特別な意味合いを持った象徴的行為、祈りを込めた宗教的行為です。

11章17節には、「夜ごと谷間に行き、神に祈りましょう。」というユディトの言葉があります。13章10節には「いつもと同じく祈りに行くようにして出かけた。」ともあります。
やはり、わざわざ夜中に谷の泉に行く理由は、そこで宗教的行為を行なうためだったのです。

ところで、10章2〜3節にも、「ひれ伏していた所から立ち上がり、侍女を呼び、安息日と祝日を過ごすための屋内に下りて来た。そして、まとっていた粗布を取り外し、やもめの服を脱ぎ、水で身を清め、高価な香油を塗り、髪を整え、髪飾りをつけ、夫マナセの生存中に着ていた晴れ着をまとった。」とあります。

こちらにも「水で身を清め」という表現があり、先に提示した12章と違って明らかに屋内ということもあり、全身を水に沈めていた可能性はこちらの方がはるかに高いですが、しかし、こちらには「バプテスマ」を意味するギリシア語の動詞は用いられていません。

もし「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです。」とする本田師の見解が正しいとすれば、むしろこちらの方に「バプテスマ」という表現が用いられてしかるべきなのですが、実際にはそうなってはいません。
この場合の「水で身を清め」は、宗教的な意味合いでの「清め」ではありませんでした。

以上から、『ユディト記』の記述を踏まえると、「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです。」と言い切る本田師の見解は誤り、と言わざるを得ません。

続いて、マルコ福音書7章の冒頭の、ファリサイ派の人々が、手を洗わないで食事をしているイエスの弟子たちをとがめる場面を見てみます。

ここで「手を洗う」で使われているギリシア語の動詞は、本田師の言う「ニプト」(nipto)です。確かに、これは合っています。
しかし、4節にはバプテスマの動詞形(baptizo)が登場します。これは、ファリサイ派の人々をはじめとするユダヤ人たちが、昔の人の教えを固く守って行なっている習慣でした。
実は、この部分の日本語訳は二通りありますが、しかしそのどちらもが、文脈上からは明らかに宗教的な意味合いでの「清め」に関するものです。

(『聖書』新共同訳)
「また、市場から帰ったときには身を清めてからでないと食事をしない。」

(『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注)
「また市場から持ち帰った物は、まず水で清めてからでなければ、それを食べることはなかった。」

このくだりで「清めて」と日本語訳されているギリシア語の表現は、「バプティソーンタイ(baptisontai)」です。
ファリサイ派の人々をはじめとするユダヤ人たちが、昔の人の教えを固く守って行なっている習慣が、この「バプテスマ」でした。

この場合、市場から持ち帰った物だったとしても、市場から帰った後の自分自身だったとしても、この「バプテスマ」を行なうことは文脈上、必ず「洗う」「清める」という意味を含んでいなければなりません。
また、同じ節の「杯」「鉢」「銅器」「寝台」を「洗い清める」ことに関しても、バプテスマの関連語である「バプティスモース(baptismous/baptismos)」という表現が、用いられています。

「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです。」「洗うとか清めるというような意味はありません。」という事実誤認に立脚する本田師の洗礼論は、誤りと言わざるを得ません。
やはり、本田師が否定する特別な意味合い、象徴的・宗教的な意味合いが、「バプテスマ」には含まれていると考えるべきでしょう。

ちなみに七十人訳聖書の列王記下5章14節では、重い皮膚病を患った「アラム王の軍の司令官ナアマン」が、イスラエル人の預言者エリシャの言葉に従って行なったことに関しても、「バプテスマ」と表現しています。

「そこでナアマンは下って行き、神の人が命じたようにヨルダン川に七度身を浸した(ebaptisato)。彼の体は元に戻り、幼子の体のようになり、彼は清くなった。」
 (日本語訳は『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によりました。)

「バプテスマ」という言葉が「単純に『身を沈める』こと」などではないという事実を、これほど象徴的に表わしている箇所はありません。
ユディトにしてもナアマンにしても「バプテスマ」の後で、「清浄な身で戻ると」とか「彼は清くなった」と言われていることに、注目すべきでしょう。


さて、聖週間ということもあり、本田哲郎師の聖書学的な誤りを指摘する投稿も、これで最後と致します。
司教様には、ブログのコメント欄を多く使用させていただき、とても感謝しております。
ありがとうございました。
最後に、今度の聖土曜日に洗礼を受けられる方々に神様からの多くの祝福がありますことを、願ってやみません。

本田哲郎師の「メタノイア」論の誤り

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年04月16日 22時59分
本田哲郎師は『聖書を発見する』(岩波書店)の中で、「メタノイア」というギリシア語に関して、独自の見解を披露しています。

・「ここで、『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。これはまったくモラルとは関係のない要請です。名詞の形『メタノイア』のメタは変身(メタモルフォーゼン)や形而上学(メタフィジックス)というように、現代のヨーロッパのことばにも使われますが、「超える」「変える」「移す」ということですが、要するに視座をどこにすえているかということです。メタノイアとは、まさにその視座を移すということ。そこには、宗教もイデオロギーも哲学も関係がない。あなたがふだんものを見て判断するその視座を移して、そこからあらためて見直し、判断しなさい、という意味です。」(29ページ)

・「では、視座をどこへでも移しさえすればいいのか、というとそうではなく、移す先まで指定されているようです。」(29ページ)

・「メタノイアに対応するヘブライ語は、ニッハムということばです。その意味は何かと言えば、to have compassion with、つまり痛み、苦しみを共感・共有するということです(この辺の経緯に興味があるなら、アボット・スミスという人の『新約聖書ギリシア語辞典』が大変有益です。古いものですが、必要に応じてアラマイ語、ヘブライ語と対照してくれています。七十人訳ではどのヘブライ語を、このヘブライ語に訳すことが多いか、などというデータも含めて紹介しています)。」(30ページ)

・「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すことだと分かります。人の痛みの分かるところに、視座・視点を移し、そこから見直してみると、実際にやってみれば分かるのですが、そのときはじめて、見えなかったところが見えてきます。何を悔い、何を改めなければならなかったのかが見えてくるのです。」(30~31ページ)


さて、本田師は上記のように言っていますが、この本田発言の妥当性を検討するため、次に、七十人訳ギリシア語旧約聖書の中の「メタノイア(metanoia、あるいはその動詞形のmetanoeō)」について、対応するヘブライ語テキストとの間で比較検討することが可能な部分(いわゆる「第二正典」や「アポクリファ」を除いた部分。七十人訳の「メタノイア」の部分とヘブライ語テキストとで内容が異なる箴言30章1節も除く)から全用例を列挙し、「メタノイア」というギリシア語がいったいどのような意味合いで用いられているのかを、ヘブライ語テキストの日本語訳と対比することで(本田師のように辞典を介してではなく)実際の「メタノイア」の個々の用例から、その意味するところを浮き彫りにしていきます。

なお対応する日本語訳は、全て『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によりました。同『聖書』の旧約部分の底本は、「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」(ドイツ聖書協会)であり、日本語訳は、基本的には底本のヘブライ語テキストからの翻訳とされています。従って、ヘブライ語テキストからの日本語訳とギリシア語七十人訳とで文脈が明らかに異なる例(アモス7章3節及び同6節)では、その旨を(※)で説明します。


A.対応するヘブライ語:nacham(=本田師の言及する「ニッハム」)

(1)サムエル記上15章28~29節
サムエルは言った、「主は、今日、イスラエルの王位をあなたから取り上げ、あなたより優れた隣人にそれを与えられました。イスラエルの栄光である方は偽ることもなく、悔い改める(metanoēsei)ことのない方です。人間ではないので悔いる(metanoēsai)ことはありません」。

(2)エレミヤ書4章27~28節
まことに、主はこう仰せになる、「すべての地はことごとく荒廃する。しかし、わたしは絶滅させはしない。この事態に、地は喪に服し、上の天は暗くなる。このように、わたしが語り、わたしが定めた。これを悔いる(metanoēso)ことは決してなく、変えることも決してない」。

(3)エレミヤ書8章6~7節
わたしは耳をすまして聞いたが、彼らは正しいことを語らず、誰一人、その悪を悔いて(metanoōn)『わたしはなんということをしたのか』と言う者はいない。誰もがみな、戦場に突入する馬のように自分の道を駆ける。空を行くこうのとりはその季節を知り、山鳩、つばめ、つぐみは渡りの時を守る。しかし、わたしの民は主の定めを知らない。

(4)エレミヤ書18章7~8節
わたしがある国やある王国に対して、これを抜き、壊し、滅ぼすと語り、わたしが警告した悪からその国やその王国が立ち返れば、わたしはただちに、それに対して下そうと計画した災いについて思い直す(metanoēsō)。

(5)エレミヤ書18章9~10節
または、わたしがある国やある王国に対して、これを立て、植えると語り、これがわたしの声に聞き従うことなく、わたしが悪と思うことを行えば、わたしはただちに、それにもたらそうと考えていた幸いについて思い直す(metanoēsō)。

(6)エレミヤ書31章18~19節(七十人訳の38章18~19節)
「わたしはエフライムが悲しみにうち震えるのを確かに聞いた。『あなたがわたしを懲らしめ、わたしは馴らされていない若い雄牛のように懲らしめを受けました。わたしが立ち返るようにし、わたしを立ち返らせてください。あなたは主、わたしの神だからです。さ迷った後、わたしは悔い改めました(metenoēsa)。悟った後、自分の腿を打ちたたきました。私は若いころの恥辱を負い、恥を受け、打ちひしがれました』。」

(7)ヨエル書2章13~14節
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、お前たちの神、主に立ち返れ。主は恵み深く、憐れみ深い。怒るに遅く、慈しみ溢れ、災いを思い留まられる(metanoōn)。あるいは主が思い直され(metanoēsei)、その後に祝福を残し、お前たちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない。

(8)ヨナ書3章7~10節
また王はニネベじゅうに次のように布告した。「王とその大臣の命令により、人も家畜も、牛や羊に至るまでみな、何一つ食物を口にしてはならない。食べること、水を飲むことも一切してはならない。人も家畜も粗布を見にまとい、力の限り神に呼び求め、各々がその悪い行いと暴力から離れなければならない。あるいは神が思い直されて(metanoēsei)、怒るのをやめ、われわれは滅びないですむかもしれない。」神は人々がその悪い行いから立ち返ったことをご覧になって思い直され(metenoēsen)、彼らの上に下そうとした災いをやめられた。

(9)ヨナ書4章2節
わたしはあなたが恵み深く憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに溢れ、災いを思い留まられる(metanoōn)ことを知っていたからです。

(10)ゼカリヤ書8章14節
万軍の主はこう仰せになる、「お前たちの先祖がわたしを怒らせたとき、お前たちに災いを下そうとし決意し、思い直す(metenoēsa)ことはなかった」

(※)なお、七十人訳のアモス書7章3節と同6節にも、「メタノイア」は用いられていますが、ヘブライ語テキストでは両方の箇所で「主はこのことを思い直され」とある一方、七十人訳では前節からの預言者アモスの主なる神に対する呼び掛けに続く文脈で、「メタノイア」が含まれています。つまり、両方の箇所とも七十人訳では「主よ、どうかこのことを思い直してください(metanoēson)」という表現となっています。参考までに、両方の箇所のヘブライ語テキストからの日本語訳(『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注)を提示しておきます。

(α)アモス書7章3節
主はこのことを思い直され、「それは起こらない」と仰せになった。

(β)アモス書7章6節
主はこのことを思い直され、「これも起こらない」と主なる神は仰せになった。


B.対応するヘブライ語:bin

(11)箴言14章15節
思慮のない者はどのような言葉でも信じるが、思慮深い者は自分の歩みを弁える(metanoian)。


C.対応するヘブライ語:baqar

(12)箴言20章25節
軽々しく、「これは聖なるものだ」と言い、願を立てた後に、それを思い直す(metanoein)者は、罠にかかる。

D.対応するヘブライ語:shith

(13)箴言24章30~32節
わたしは怠け者の畑の傍らを通り、思慮に欠けている者のぶどう畑の傍らも通った。見ると、そこは茨が一面に茂り、いらくさが地面を覆い、石垣が崩れていた。それで、わたしはこれを見て、心に留め、よく考え(metenoēsa)、教訓を得た。

E.対応するヘブライ語:ish

(14)イザヤ書46章8~9節
このことを覚え、しっかりと自覚せよ(metanoēsate)。逆らう者どもよ、思い起こせ。以前から、先に起こったことを覚えよ。まことに、わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神は、まったくいない。


以上の用例から明らかになったのは、七十人訳聖書で「メタノイア」という表現が用いられる場合、最も多い用例は、

「人間たちの行ないを怒りを覚えた主なる神が、預言者を通して災いを予告し、それに対して人間たちがこれまでの行ないを悔い改める姿勢を見せた時、主なる神は人間たちの悔い改めに強く心を動かされて、予告していた災いについて思い留まる(思い直す、考え直す)」

という事柄に関係しているということです。これは、ヘブライ語のnacham(=本田師の言う「ニッハム」)からの翻訳の場合に多く見られ、該当するのはエレミヤ18・7~8、ヨエル2・13~14、ヨナ3・7~10、同4・2ですが、これらの場合に、「心を動かされて思い直す」つまり「メタノイア」するのは、人間ではなく、実際には主なる神の方だったということがわかります。
 
このヴァリエーションとして、逆に人間たちが悪へと走る場合に、主なる神は人間たちへの「幸い」についても、「思い直す」場合もあります(エレミヤ18・9~10)。また、人間たちの方から主なる神に、災いを思い留まるように強く求める場合にも、「メタノイア」という表現が用いられています(アモス7・3、同7・6)。さらに主なる神が、自分は予告していた「災い」を思い留まることはない、と宣言する文脈でも「メタノイア」は用いられています(エレミヤ4・27~28、ゼカリヤ8・14)。預言者サムエルがサウルに王位の剥奪を宣告する場合のニュアンスもこれに近いです(サムエル上15・29)。

また、同じヘブライ語のnachamから翻訳されている場合でも、人間たちの方が「悔い改める」用例も、当然、見られます(エレミヤ8・6~7、同31・18~19(七十人訳の38・18~19))。実際の用例を検討してみると、ヘブライ語nachamからの翻訳の場合は総じて、「思い直す」「考え直す」「思い留まる」「後からよく考える」などのニュアンスで「メタノイア」という表現が用いられていることがわかります。これらの場合、本田師の言うような「視座・視点を移す」とは明らかにその意味合いは異なっています。
 
nacham以外のヘブライ語からも翻訳されている例もいくつか見られますが、それらの場合の「メタノイア」は「弁える」「よく考える」「(しっかりと)自覚する」など、「熟考する」「熟慮する」というニュアンスで用いられることが多いです(箴言14・15、同24・30~32、イザヤ46・8~9)。また「思い直す(後から考えを変える、気が変わる)」などのニュアンスの場合もあります(箴言20・25)。これらの場合も同様に、本田師の言う「視座・視点を移す」とは明らかに意味合いは異なっています。


念のために、七十人訳で「メタノイア」が用いられている箇所で、それに対応している新共同訳聖書の日本語がどうなっているのかも、以下に列挙しておきます。

(1)サムエル上15・29 
 「気が変わったりする(metanoēsei)」「気が変わる(metanoēsai)」

(2)エレミヤ4・28
 「後悔(metanoēsō)」

(3)エレミヤ8・6 
 「悔いる(metanoōn)」

(4)エレミヤ18・8
 「思いとどまる(metanoēsō)」

(5)エレミヤ18・10
 「思い直す(metanoēsō)」

(6)エレミヤ31・19(七十人訳の38・19)
 「後悔し(metenoēsa)」

(7)ヨエル2・13〜14
 「悔いられる(metanoōn)」「思い直され(metanoēsei)」

(8)ヨナ3・9〜10
 「思い直されて(metanoēsei)」「思い直され(metenoēsen)」

(9)ヨナ4・2
 「思い直される(metanoōn)」

(10)ゼカリヤ8・14
 「悔い(metenoēsa)」

(11)箴言14・15
 「見分けようとする(metanoian)」

(12)箴言20・25
 「思い直せば(metanoein)」

(13)箴言24・32
 「観察した(metenoēsa)」

(14)イザヤ46・8
 「反省せよ(metanoēsate)」

若干の訂正

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年04月30日 21時20分
・本田哲郎師の「最初の訪問者」論は誤り
"同書では、東方から星に導かれて幼子イエスを礼拝するためにやって来たマゴイを、" → "マタイ福音書では、東方から星に導かれて幼子イエスを礼拝するためにやって来たマゴイを、"

・本田哲郎師の洗礼論の誤り
"ユディトはもちろん旧約の女性であり。" → "ユディトはもちろん旧約の女性であり、"

・本田哲郎師の「メタノイア」論の誤り
"「人間たちの行ないを怒りを覚えた主なる神が、" → "「人間たちの行ないに怒りを覚えた主なる神が、"

本田哲郎師の「石切」説は誤り(6)

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年05月04日 15時14分
本田師の『聖書を発見する』(岩波書店)88〜89ページには、次の記述があります。

「『石切り』(テクトーン)は、じつはまったく大工(オイコドモス)とは違うのです。大工は、家を建てる人、家づくりの職人です。『建築家のすてた石、これが角(すみ)の首石(おやいし)となった』(マルコ福音書一二章10節)ということばがあり、そこでは『建築家』にオイコドモスをきちんと使っている。つまり、それが大工さんです。大工が、この石は使えないと言ってポンと放り出した石、それがイエス、つまり角の首石になる。」(88〜89ページ)

「しかし、ここでイエスについて使われているのは、テクトーンという違うギリシア語です。」(89ページ)


さて、「石切り」を意味するギリシア語が、テクトーン(tekton)ではなく、ラトモス(latomos)であることに関しては、これまでの投稿で論証してきました。

しかし、主イエス・キリストや聖ヨセフの職業のテクトーンというギリシア語に対し、本田師は、オイコドモス(oikodomos)こそが大工・家を建てる人・家づくりの職人である、と主張しています。

ではテクトーンとオイコドモスは、どこがどのように違って区別されるのでしょうか。


旧約聖書の歴代志上22章15節には「採石労働者(石切り人)、石工、大工」が登場します。
そこで七十人訳ギリシア語旧約聖書を見ると、「オイコドモイ・リトーン」という言葉と、「テクトネス・クシュローン」という言葉が書かれています。

この、「オイコドモイ・リトーン(oikodomoi lithon)」というのは、
「石(lithon)を扱うオイコドモス」
という意味です。

また、「テクトネス・クシュローン(tektones xulon)」というのは、
「木(xulon)を扱うテクトーン」
という意味です。

七十人訳聖書では、「採石労働者(石切り人)」と「石工」をオイコドモスという言葉でまとめて表現し、「大工」だけをテクトーンと表現しているのです。

つまり、同じ建築に携わる人々であっても、オイコドモスは石造建築部分を担当する人々、テクトーンは木造建築部分を担当する人々、というようにギリシア語が使い分けられていたのです。

ちなみにヘブライ語では、

採石労働者(石切り人):ホツビーム

石工:ハラシェ・エベン(石を扱うハラシーム)

大工:ハラシェ・エーツ(木を扱うハラシーム)

となります。

ハラシーム(ハラシェ)は「職人」、エベンは「石」、エーツは「木」です。

オイコドモスが石造建築部分を担当する人々だと知れば、石を捨てるのがオイコドモスであってテクトーンではないというのも納得です。


それでは、古代イスラエルの木造建築がどの程度の水準にまで達していたのかを、旧約聖書の列王記上6章のソロモンの神殿建設の記述の一部で見てみます。これは、紀元前九六〇年頃のことで、主イエス・キリストや聖ヨセフの時代から遡ること一千年近くも前の話、つまり現代人からすると三千年近くも前の話です。(以下の引用は、『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によりました)

・ソロモンは神殿の建設を完成させるにあたり、杉の垂木(たるき)と厚板で天井を造った。また、神殿の周囲に造り巡らした脇間の高さは五アンマで、これを杉材で神殿に接続させた。(9〜10節)

・ソロモンは神殿の内壁を床から天井の表面まで杉の板で張った。神殿の床は糸杉の板で張った。神殿の奥の部分二十アンマを床から天井の表面まで杉の板で仕切り、神殿内に内陣、すなわち至聖所を造った。(15〜16節)

・神殿の内壁の杉板には瓢箪(ひょうたん)と開いた花の模様が浮き彫りにされていた。すべてが杉で石は見られなかった。(18節)

・内陣の入り口にはオリーブ材の扉を作った。上の横木と側柱は五段層状であった。(31節)

・同様に、外陣の入り口にもオリーブ材で四段層状の枠組みを作った。二つの扉は糸杉で作られた。一方の扉は二枚に畳める折り戸で、もう一方の扉も二枚に畳める折り戸であった。(33〜34節)

次の7章のソロモンの宮殿建設の記述にも、木造建築の記述が登場します。

・彼は「レバノンの森の家」を建てた。それは長さ百アンマ、幅五十アンマ、高さ三十アンマで、四列の杉の柱で支えられ、柱の上に杉の梁が渡してあった。柱の上の梁は各列に十五本ずつ、四十五本あり、その上に杉の天井が張られていた。(2〜3節)

『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注の巻末の付録「度量衡および通貨」によれば、このアンマというのは約45cmということです。


......最後に、テクトーンとオイコドモスの使い分けの話に戻りますが、歴代志上14章1節でも、日本語訳の「石工」「大工」に相当するギリシア語を七十人訳で調べると、「石工」にオイコドモスが、「大工」にテクトーンが用いられています。

本田哲郎師の「イエスの誕生」論の誤り(2)

投稿者 Josephology 投稿日時: 2012年08月10日 12時01分
本田師の『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)から、師の「イエスの誕生」論をおさらいします。

「しかも、その母は律法に背いて妊娠するような罪人マリアと見なされていたようですし、そのマリアを受け入れたヨセフも同類とされ、家族ぐるみ低辺に立たされていたイエスでした。マタイ福音書とルカ福音書のイエス誕生の物語がそのことを語っています。イエスの誕生はだれからも祝福されないものでした。」(60ページ)

「つまりイエスは父親のわからない子どもだと、当時の人たちは気づいていたということです。まして伝統色の強いベツレヘムの村は、律法に違反したカップルを、いくら親戚とはいえ許し難い、ということで排斥したわけです。その結果が家畜小屋だったのです。だから、マリアもヨセフも罪人というレッテルを貼られた状態だった。」(129ページ)

「イエスが『徴税人や罪人の仲間』といわれたとしても、それはケンカをしているときの売りことばに買いことばとしていわれたわけではなくて、その当時の社会認識として、『イエスは罪の結果生まれた子』であって、『穢れた者』としか見られていなかったということです。」(129ページ)


しかし、この本田説は、旧約聖書の申命記によって否定されます。
このことは以前の投稿で、既に手短に指摘しましたが、もう少し詳しくみていきます。
申命記には、「主の会衆」から排除されるべき人々として、次の律法の規定があります。

 混血の人は、主の会衆に加わってはならない。
 (申命記 23章3節)

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』の該当箇所の欄外の注には、この「混血の人」の説明として「不法な近親結婚、あるいは姦通による私生児を指すと思われる」とあります。
また「会衆」については、「幕屋で、後代には神殿で、礼拝のために集まる人々のこと。」であると、同じく欄外の注にあります。

バルバロ訳聖書(講談社)では、この「混血の人」の部分を「マンゼル」と表現しています。
「マンゼル」について、バルバロ訳聖書の欄外の注には、「これは意味不明なことばの一つで、私生児、あるいはヘブライ人とペリシテ人の混血児、または偶像と何かかかわりのある者などの意味であろうと言われる。」とあります。

これらの欄外の注の説明は、ユダヤ教の多くの伝承や、アラマイ語訳・ギリシア語七十人訳・ラテン語ヴルガタ訳・シリア語訳などの古代訳聖書を踏まえていますが、これらの伝承や翻訳の多くは、「マンゼル」を「売春婦の子・姦婦の子・私生児」という意味で捉えています。

他の日本語訳聖書ではこの箇所がどう翻訳されているかをさらに調べると、日本聖書協会の新共同訳聖書では「混血の人」という日本語ですが、同協会の口語訳聖書では「私生児」と翻訳されています。

つまり、この「マンゼル(mamzer)」というヘブライ語は、単に文字通りの「混血の人」という意味の他にも、多様な意味を含んでいて、その厳密な定義付けについては細部では諸説があるものの、律法の規定という見地で「不法、非合法的、不適切」な性関係から生まれた子は「マンゼル」というこの範疇に該当する、と見なす点では一致しているわけです。

ちなみに、申命記22章23〜24節では、「ある男と婚約している処女の娘」が「ほかの男」と「一緒に寝た場合」について、その前の22節の人妻の姦淫のケースと同じように取り扱われていることに注目すべきでしょう。つまり、旧約の律法では、「ある男と婚約している処女の娘」の姦淫は、既婚女性と同様の扱いを受けるのです。
ということは、「イエスの母マリアはヨセフと婚約していた」と『マタイによる福音書』1章18節にある以上、もし万が一、「夫ヨセフ」(19節)以外の男性との間に「不法、非合法的、不適切」な関係を持ったならば、そこから生まれた子は「マンゼル」として取り扱われるということになります。


さて、主イエス・キリストの時代、「混血の人、マンゼル(mamzer)」と見なされること、すなわち「主の会衆に加わってはならない」という範疇で扱われることとは、具体的には一体なにを意味したのでしょうか。
それは、エルサレムの神殿(及び各地の会堂)への立ち入りを禁じられる、ということです。
マンゼルは一般的なイスラエル人(ユダヤ人、ユダヤ教徒)としての資格を完全には満たしていないと、イスラエル人の社会の中でも一段低く見られていたからです。

申命記23章3節は、マンゼルについて、その子孫は十代目になっても主の会衆に加わってはならない、としています。これは、次の4節で、アンモン人やモアブ人について言われていることと同じでした。ちなみに8〜9節では、エドム人やエジプト人については、三代目から主の会衆に加わることができる、としています。

「十代目になっても」という部分は、「永久に」(ネヘミヤ記13章1節)という意味で受け止められました。
つまり「マンゼル」は、非イスラエル人・非ユダヤ教徒であるアンモン人やモアブ人と同列で、エドム人やエジプト人よりもある意味では厳しく扱われていたわけです。

イスラエル人の社会の中の、「マンゼル」の位置付けがうかがえる旧約聖書の箇所です。


旧約聖書には、この「マンゼル(mamzer)」というヘブライ語が、もう一か所だけに、登場します。

 アシュドドには混血の民が住む。
 (ゼカリヤ書9章6節)

アシュドドは、ペリシテ人たちの住む主要な町々のうちの一つです。
ユダの人々の中で「アシュドド人」を母親として生まれた子供たちが、イスラエル人の社会でどのような扱いを受けることになったかについては、ネヘミヤ記の13章23節以下に記してあります。
バルバロ訳聖書の欄外の注には「マンゼル」の解釈例の一つとして、「ヘブライ人とペリシテ人の混血児」とありました。
一方の親がイスラエル人で、もう一方の親が非イスラエル人の場合、その間に生まれた子は、イスラエル人の間では「混血の民」と見なされたのです。

旧約聖書ではゼカリヤ書はネヘミヤ記よりもずっと後に置かれていますが、ゼカリヤ書の預言がなされたのは紀元前6世紀のことと考えられる一方で、ネヘミヤ記13章の記述する歴史は紀元前5世紀のこと、と考えられています。


ところで本田師の『釜ヶ崎と福音』によれば、「イエスは罪の結果生まれた子」「穢れた者」だということですから、本田説に従えば当然、イエスは「マンゼル」ということになります。
既婚女性もしくは「ある男と婚約している」女性から生まれた「父親のわからない子ども」は、「マンゼル」に該当します。

本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店)85ページには、「マリアがじつはレイプの被害者だったのではないか、あるいは貧しさゆえに身を売るような仕方で家計を支えるしかなかった女性だったのではないか、という推測」という思わせぶりな記述がありますが、けれども母親が既に婚約している女性である場合、「レイプによって生まれた子」「売春によって生まれた子」「姦淫によって生まれた子」などの私生児は、イスラエル人の社会では、「マンゼル」という範疇で扱われることになります。
そして、いったん私生児としての「マンゼル」の烙印が押されてしまったら、その「汚れ」はどのような手段によっても清めることはできないとされていました。

ある意味これは、非イスラエル人よりも希望のない境遇でした。なぜなら、非イスラエル人でも、改宗してユダヤ教徒になれば、その「汚れ」は清めることができるからです。
(さすがに現代のイスラエル社会では、人権の問題もあり、ここまで厳格なことにはなってはいないという話もありますし、「マンゼル」という概念が単純に定義できるものではないことからも推測できるように、その範疇の人々をどう扱うかについても、古代〜中世〜近代〜現代という時代の変遷の中では、必ずしも見解が統一されたものではなかったようです。)


これに関して、ヘブライ大学教授で第二神殿時代のユダヤ史が専門のS・サフライ氏は、その講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)89ページで、ユダヤ教への改宗事情について次のように語っています。

「ユダヤ教への改宗は、ギリシア、ローマ時代にあっては、ごく日常的に行われていたことであり、これは紀元七〇年の神殿崩壊に至るまで続きました。このことは、ユダヤ人でない人々が、ますますユダヤ教に接近してきたことを意味します。」


さて、以上のことから、もしもイエスが「マンゼル」であれば、神殿の中にその姿がある、というのはありえないことだとわかります。
しかしながら、四福音書は神殿の中におられるイエスの姿を多くの箇所で書き記しています。

神殿の中におられるイエスの姿に触れている福音書の箇所を、書き出してみます。

(1)マタイによる福音書
21章12節〜17節、21章23節〜24章1節、26章55節

(2)マルコによる福音書
11章15節〜19節、11章27節〜13章1節、14章49節

(3)ルカによる福音書
2章27節〜39節、2章42節、2章46節〜50節、19章45節〜21章38節、22章53節

(4)ヨハネによる福音書
2章14節〜22節、5章14節〜47節、7章14節〜39節、8章2節〜59節、10章23節〜39節、18章20節


また、会堂の中におられるイエスの姿に触れている福音書の箇所をも、書き出してみます。

(1)マタイによる福音書
4章23節、9章35節、12章9節〜15節、13章54節〜56節

(2)マルコによる福音書
1章21節〜29節、1章39節〜45節、3章1節〜6節、6章2節〜6節

(3)ルカによる福音書
4章15節、4章16節〜29節、4章33節〜38節、4章44節、6章6節〜11節、13章10節〜21節

(4)ヨハネによる福音書
6章25節〜71節、18章20節


ところで、先に紹介したS・サフライ氏の『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』90~91ページでは、次のように語られています。
 
「この点に関する多くの資料の中で、とりわけ重要で衝撃的なものは、先述のヨセフスが言っていることです。彼によれば神殿の中庭の周囲には、ラテン語とギリシア語による告知板があり、「ユダヤ人でない者は、だれもこれを越えて入るべからず。この禁を犯す者は、自ら死罪を招くことの責めを負う」と記されていたというのです。しかし研究者たちは当時のローマ人がユダヤ人に、そのような禁止令を刻んだ石碑を神殿に建てることを許可するはずがないと、ヨセフスの記述を信じませんでした。」
「ところが、一八七一年にこの石碑が発見されたのです。現在、それはイスタンブールの考古学博物館にあります。以前に、同僚とたまたまそこを訪れたときのことです。午後の祈りのときが来て、わたしは何気なくある石の近くに立って祈っていました。祈り終わって碑文を見ると、何とこの石碑ではありませんか! 実は、同じ碑文の石碑がエルサレム旧市街の東側の獅子門の近くでも発見されましたが、これはエルサレムのロックフェラー博物館に納められています。当時は、たとえユダヤ人であっても身を浄めなければ神殿に入ることは許されませんでした。いわんや、ユダヤ人でない人々にとって、浄めは不可欠でした。彼らはユダヤ人にならない限り清浄にはなり得ないのです。発見された石碑には、神殿に入る者はだれであろうと、ユダヤ教徒として、身も心も清浄でなければならないとの規定が記されていたのです。」


……つまり、本田哲郎師の言うような「イエスは罪の結果生まれた者」「穢れた者」という説がもし正しいとするならば、イエスは「マンゼル」となってしまい、「神殿に入る者はだれであろうと、ユダヤ教徒として、身も心も清浄でなければならないとの規定」を満足することができなくなり、神殿の中に入れなくなってしまうのです。
だとすれば上に列挙した四福音書の「神殿の中のイエス」の記述は、全部が全部、虚構ということになってしまい、とてつもなく大きな矛盾が生じることになります。

もし「イエスは罪の結果生まれた者」「穢れた者」と仮定してしまうと、以上のような矛盾に突き当たってしまいます。
やはり、イエスは「マンゼル」ではなかった、ということなのです。
本田哲郎師の「イエスの誕生」論は誤り、と言わざるをえません。

本当に「汚れている者」とみなされていたかどうか、あるいは本当に「差別を受けている者」であったかどうかは、神殿に入る(上る)ことを認められるか否かで、端的に判別することができます。
ちなみに、サムエル記下5章8節には、「目の見えない者と足の不自由な者は神殿に入ることはできない」という言い回しがあります。
だからこそ主イエス・キリストは公生活中にしばしば目の見えない人をいやされ、またペトロは神殿の門の前に座っていた足の不自由な人をいやした(使徒言行録3章)のです。
それは単なる病気の治癒にとどまらず、同時に病気のゆえに置かれていた差別的な境遇や偏見からの解放をも意味しました。
まさに「目が見えない状態からの治癒」=「差別的境遇や偏見からの解放」であるからこそ、ルカ福音書4章18節がイザヤ書61章1節と内容的に一致するのです。


話を戻しますが、前述の「マンゼル」に関する律法の規定を知ってさえいれば、本田哲郎師やホアン・マシア師といった人々がほのめかしている、いわゆる「冒涜説」などは、聖書学的に全く成立し得ないと証明できます。

使徒言行録16章3節には、パウロがテモテに対し、「その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。」とあります。
テモテの母はユダヤ人でしたが、父はユダヤ教に改宗したわけではないギリシア人でした。よって、当時(第二神殿時代)のユダヤ人の間では、テモテは「混血の人」と扱われました。
しかし、使徒言行録の時代には、「混血の人」の場合は、改宗してユダヤ教徒になったことを明らかにすれば、「汚れ」は清められる、と考えられていました。
そして改宗者が男性の場合に、ユダヤ教への正式な改宗の証しとして絶対に必要だったのが、割礼でした。
テモテはそのような手続きを経ないことには、エルサレムの神殿にも各地の会堂にも立ち入ることはできませんでしたが、テモテがパウロの協力者として、各地のユダヤ人たちに宣教するためには、神殿や会堂に足を運ぶことは避けて通れませんでした。
いかにテモテが、「評判のよい人であった」(使徒言行録16章2節)であったにせよ、当時の厳然たる神殿の掟の前には、通用しなかったということです。

もっとずっと後の時代になると、「母親がユダヤ人ならば父親がユダヤ人であろうとなかろうとその子もユダヤ人」という母系原理がユダヤ人の間で認められるようになっていきますが、福音書や使徒言行録の(第二神殿が存在した)時代にはまだ、ただ単に母親がユダヤ人であるというだけでは、テモテは一人前のユダヤ人としては認めてもらえませんでした。
旧約聖書でも新約聖書でもさまざまの系図に関する記事を読めば一目瞭然ですが、聖書が取り扱っている時代には、圧倒的に父系原理の方が支配的でした。

また、使徒言行録21章27節以下には、パウロが神殿で逮捕された話が登場します。
先の石碑の話にあるように、もしユダヤ教徒でない者が神殿に入った場合、それは死罪に該当しましたが、その者を神殿に入れたユダヤ人も、同じく死罪に該当すると考えられていました(バルバロ訳聖書の欄外の注を参照してください)。
パウロがテモテにあえて割礼を授けたのは、エルサレムでその種の面倒に巻き込まれる可能性を予め防ぐ意味もあったのです。


以上のように、「マンゼル」という概念を通して、いわゆる「冒涜説」を検証してみると、「レイプによる子」「売春による子」「姦淫による子」などの説だと、当時のユダヤ人の世界に当てはめて考えると、いずれの場合もイエスは「マンゼル」に該当することになります。

ただし、同じ「マンゼル」でもテモテのように単なる「混血の人」であれば、改宗してユダヤ教徒になることで、「汚れ」は清めることができる、と考えられていました。
ですから、例えばもしローマの兵士の父親とユダヤ教徒の母親が結婚して、その間に生まれた「混血の人」ということなら、後からユダヤ教徒である証としての割礼を受けるのであれば、その「汚れ」から解放される可能性が残されています。
あるいは、そのローマの兵士が改宗して割礼を受けたユダヤ教徒になり、それからユダヤ教徒の女性と正式に結婚し、その後に生まれた子であれば、「混血の人」「マンゼル」の「汚れ」とは関係ない存在となることができる可能性があります。

しかし、ローマの兵士が、「ある男と婚約している処女の娘」であるユダヤ教徒の女性と、「レイプ」「売春」「姦淫」などで関係を持ち、その結果として生まれた子であれば、その子はやはり「マンゼル」となりますが、このような場合には、「汚れ」は清めることが不可能とされていました。
つまり、本田哲郎師その他の人々が主張する「冒涜説」を、仮に真実とすると、イエスは冒涜の結果の「マンゼル」だったということになり、するとイエスは、どうしても神殿に入れなくなってしまうのです。
同様に、神殿に入れないのと同じ理由で、各地の会堂にも入れなくなってしまうのです。
それならば、四福音書にある「神殿の中のイエス」「会堂の中のイエス」に関するたくさんの記述は一体なんなのか、ということになります。


やはり、「冒涜説」を真実とするという前提自体が誤り、という以外に、答えはありません。
(「四福音書の全部が誤り」と冒涜説の支持者が言うのであれば、もはや話にはなりません)

イエスもマリアもヨセフも使徒たちも「神殿に入る者はだれであろうと、ユダヤ教徒として、身も心も清浄でなければならないとの規定」に抵触することがなかったからこそ、神殿参りをすることができたのです。


最後に、イエスの母マリアの処女性の聖書的な根拠について、『ルカによる福音書』1章から引用して再確認します。

 さて、六か月目に、み使いガブリエルが、神のもとから、ガリラヤのナザレという町の一人のおとめのもとに遣わされた。このおとめは、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
 (ルカによる福音書 1章26〜27節)

ここで、二回繰り返して、「おとめ」という言葉が用いられていますが、原文のギリシア語は「パルテノス(parthenos)」すなわち処女のことです。

それ以外の聖書的な根拠も見てみましょう。

 「見よ、おとめが身籠って男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。
 (マタイによる福音書 1章23節)

この節の「おとめ」も、原文のギリシア語は「パルテノス」すなわち処女のことです。

 マリアはみ使いに言った、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。
 (ルカによる福音書 1章34節)


(以上の聖書の日本語訳は、特に説明がない場合は『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によりました。)

訂正

投稿者 Josephology 投稿日時: 2013年06月14日 22時47分
・本田哲郎師の「メタノイア」論の誤り
"七十人訳ではどのヘブライ語を、このヘブライ語に訳すことが多いか、などというデータも含めて紹介しています" → "七十人訳ではどのヘブライ語を、このギリシア語に訳すことが多いか、などというデータも含めて紹介しています"

本田哲郎師の「イエスの誕生」論の誤り(3)

投稿者 Josephology 投稿日時: 2014年02月02日 12時37分
 本田哲郎師は、『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)で次のように書いています。

 「だってヨセフといいなづけのマリアは、人口調査、住民登録のためにヨセフの生まれ故郷ベツレヘムに、つまり実家の村に帰ってきた。実家の村だから、とうぜん本家がそこにあるはずです。本家の家長を通じてローマ総督に、『うちの家系は、何歳以上の男子が何人、女子が何人、子どもが何人、羊が何頭』という具合に、登録するわけですから。だから本家があるだけではなく、その親族、一族の家も、その小さなダビデの村にいっぱいあったはずです」(127~128ページ)


 さて本田師は上記のように、イエスの養父ヨセフの実家やその「本家」がベツレヘムにあったかのように発言していますが、実際にはルカ福音書は「自分の町」(2章3節)「ダビデの町」(2章4節)としてだけベツレヘムを紹介しており、また「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」(同節)とまでは書いているものの、そこベツレヘムにヨセフの実家があったなどとは書いていません。
 そもそも、単に「自分の町」というくだりだけでヨセフの実家がベツレヘムにあったと判断できるのならば、「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」と続く説明のくだりは全く必要ないということになります。

 あえて「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」という説明がなされているということは、むしろ、ベツレヘムという場所は本当のところヨセフの実家の所在地ではなかったけれども先祖ダビデの出身地であったためそこで住民登録を行なうことになった、という可能性を強く示唆しています。

 ベツレヘムは確かに「ダビデの町」として紹介されてはいますが、実際にはダビデがベツレヘムに住んでいたのは若者時代までのことであって、その後イスラエルの王となってからはヘブロン次いでエルサレムに居を定めており(サムエル記下5章4~5節)以後、王としてベツレヘムに住んだなどとは旧約聖書のどこにも書いてありません。
 旧約聖書とりわけ列王記では、ダビデの子孫の王たちが葬られた場所として「ダビデの町」という表現がしばしば登場しますが、列王記下14章20節ではその「ダビデの町」とはエルサレムであることが明らかにされています。つまり旧約聖書では「ダビデの町」とはむしろどちらかというとエルサレムを指していることが多いのです。

 ルカ福音書2章39節は聖家族に関して「自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。」と書いていますが、このことからも、「自分の町」というのが必ずしも実家の所在地を指しているわけではないというのは明白でしょう。
 
 ところでダビデがエルサレムに居を定めて以降、バビロン捕囚に至るまでの間、旧約聖書にベツレヘムという地名が登場すること自体、稀少になってしまいます。
 マタイ福音書2章6節に引用されたミカ書5章の有名な預言を除けば、かろうじてレハブアム王(ダビデの孫、ソロモンの子)の時代にベツレヘムを含む15の町々(「砦の町」)の守りを非常に堅固なものにしたことが、歴代志下11章6節以下に書かれてあるくらいです。しかもこの時レハブアムはエルサレムにとどまったことがその直前に明記されています(同11章5節)。

 レハブアム王については、「彼は賢明に行動し、その息子たちの何人かをユダとベニヤミンの全土に、すなわちそのすべての砦の町々に配置し」と歴代志下11章23節に書かれていますので、レハブアムの息子の少なくとも一人はベツレヘムに住んだものと考えられますが、ヨセフの直系の先祖であるアビヤ(マタイ福音書1章7節)に関しては「アビヤがユダの王となり、エルサレムで三年間王位にあった。」(歴代志下13章1~2節)と書かれていますのでベツレヘムには住まなかったと考えられます。


 そこで次に、バビロン捕囚からユダヤに戻った後で、イエスの養父ヨセフの直系の先祖がいったいどこに居を定めたのかが最も重要になりますが、ここで問題の鍵となる人物がゼルバベルという人物です。ゼルバベルはヨセフの先祖の中でマタイ福音書の系図(1章12~13節)とルカ福音書の系図(3章27節)との両方に登場します。

 ゼルバベルの住んだ場所がエルサレムであってベツレヘムではなかったことは、簡単に確かめることができます。なぜなら、「イスラエル人は皆それぞれ、自分たちの町に住んだ。」(エズラ記2章70節)と書いてある一方、ゼルバベルは「ユダの総督」(ハガイ書2章21節)であり「民の長たちはエルサレムに住んでいた。」(ネヘミヤ記11章1節)と書いてあるからです。

 以上から、ゼルバベルが居を定めた場所がエルサレムであることは、明白です。

 ということは、ゼルバベルがヨセフの直系の先祖であることから、ガリラヤのナザレ以前にヨセフの実家やその「本家」があったとすれば、その場所はベツレヘムではなくエルサレムであったと考える方が自然ですが、ならばなぜルカ福音書の中の住民登録の場所がエルサレムではなくベツレヘムになったかと考えると、それはやはりヨシュア記にあるイスラエルとしての最初の領地配分に基づく居住地(ヨシュア記15章59節)である先祖ダビデの出身地を尊重したためであろうと思われます。
 ルカ福音書2章3節の「自分の町」という表現は、あくまでもその意味合い(ベツレヘムという場所は本当のところヨセフの実家の所在地ではなかったけれども、先祖ダビデの出身地であったためそこで住民登録を行なうことになった)で解釈すべきでしょう。

 結局のところ、ダビデが若くして故郷のベツレヘムを離れて以来、ヨセフに至るまでの代々の直系の子孫でベツレヘムに住んだ人物を旧約聖書で確認できない一方、エルサレムに住んでいた人物ならば容易に確認できるという事実は、ヨセフの実家あるいはその「本家」がベツレヘムではなくエルサレムにあったことの裏付けと考えられるでしょう。

 また、エズラ記2章では「ゼルバベル」(2節)と「ベツレヘムの男子」(21節)とを別々に記述しており、また同様にネヘミヤ記7章でも「ゼルバベル」(7節)と「ベツレヘムとネトファの男子」(26節)とを別々に記述しているという事実も、ゼルバベルの直系の子孫であるヨセフの実家あるいはその「本家」が、ベツレヘムではなくエルサレムにあったことの裏付けとなりうるでしょう。


 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはその著書『歴史』の第三巻において、ペルシア人が支配下の諸民族をどのように統治していたかを、次のように書き記しています。

 「それというのもペルシア人には王家の後裔を尊重する気風があって、ペルシアに反旗を翻したような場合でも、その子孫にはいつも主権を返還しているからである。」(ヘロドトス『歴史(上)』(岩波文庫、松平千秋訳)335ページ)

 この場合の「その子孫にはいつも主権を返還」という意味はつまりその子孫に「総督として統治」(前掲書同ページ)させるということでした。

 ゼルバベルは当時のペルシア人によって、ダビデの子孫たちの生き残りの中で最も統治者にふさわしいと評価されたわけです。そういうわけでゼルバベルはバビロン捕囚以前にダビデの子孫の王たちがそうしていたように、今度は「ユダの総督」として、エルサレムにあって統治を行なっていたということです。


 本田師はヨセフの実家がベツレヘムにあったという前提で、『釜ヶ崎と福音』128~129ページでマリアに対する冒涜説を展開していきますが、その前提が誤りである以上は、本田説は結局すべてが空理空論に過ぎないということになります。


 ところでネヘミヤ記11章3~5節によれば、「聖なる都エルサレム」(ゼカリヤ書11章1節)にはイスラエルの中でもユダ族とベニヤミン族が優先して住むことが認められ、それ以外の人々は「ユダの町々」に住むことが定められたとあります。
 バビロン捕囚からユダヤに戻ってエルサレム神殿が再建された後、イスラエル人はだれもが神殿のある「聖なる都」エルサレムに住むことを希望したのですが、結局イスラエルが北王国の一〇部族と南王国の二部族(ユダとベニヤミン)に分裂していた過去の歴史を考慮してか、ユダとベニヤミンにエルサレム居住の優先権が与えられたのです。

 ダビデの子孫は当然、ユダ族でした。一方、「ユダの町々」の一つであるベツレヘムには、ユダ族とベニヤミン族を除いたそれ以外のイスラエルの人々が住むことになったのです。

 ネヘミヤ記11章25~30節にはエルサレムに住まなかったユダの一族が住んだ地域について書かれていますが、その中にベツレヘムは含まれてはいません。
 これもまた、ヨセフの先祖の実家がベツレヘムではなくエルサレムにあったという、もう一つの証明でしょう。ネヘミヤ記11章の記述に基づく限り、ヨセフの実家がベツレヘムにあったと考えるのは極めて不自然なのです。

 
 最後に、ネヘミヤ記の時代から福音書の時代までのあいだに、ヨセフの何代か前の先祖のだれかがエルサレムからガリラヤのナザレに移住していたはずであるということになりますが、これについては聖書の中に記述がありません。参考までに、そのあたりの事情についてヘブライ大学教授のS・サフライ氏の講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)179~180ページから引用します。

 「会場の皆さんはよくご存じと思いますが、イスラエルの地は北にガリラヤ、中ほどにサマリアの地、そして南にユダヤと三つに分かれています。ガリラヤとユダヤの中間にサマリアがあって、ユダヤ人の二大居住地を隔てています。イスラエルの子らが捕囚から帰ったとき、ユダヤだけに帰ってきたこともよく知られています。」

 「それから四〇〇年間近く、ユダヤ人が生活したのはエルサレムの周辺と、ユダヤ地方ぐらいなものでした。当時、ガリラヤはユダヤ州には属していませんでした。パルティア、ペルシアあるいはヘレニズム時代、ローマ時代でもそうでした。紀元前一六七年まで、ガリラヤの地に住んだユダヤ人はごくごく少数でした。ハスモン王朝の王たちがガリラヤの地を征服して後彼らの王国に加えました。ガリラヤのほとんどの町々は、紀元前二世紀の終わりになって建設されました。」

 「以上のことをひと言で申し上げますと、第二神殿時代のかなり後期になって、ガリラヤはユダヤ人の居住地になったということです。」

 要するに、ヨセフの何代か前の先祖たちがエルサレムからガリラヤに移住したのは主イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになる一〇〇年くらい前、と考えるのが妥当のようです。


 ちなみに、S・サフライ氏の前掲書『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』には、次のように書かれています。

 「エルサレムとその周辺のユダヤ地方との関係と、エルサレムとガリラヤ地方との関係を比較検討してみますと、次のように結論されます。ユダヤ地方よりもガリラヤ地方のほうが神殿とエルサレムの良い教えにずっと近かったのです。」(182ページ)

 「エルサレムの住民とユダヤの住民の違いを集めれば、長い個条書きの例ができます。この点についていつでもエルサレムの住民はユダヤの住民より高度に宗教的であり、家族関係も高い水準にあります。ガリラヤの住民もまた同様に、ユダヤの住民よりは高い水準にありました。エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。しかしユダヤではこのことについてあいまいでした。この点でも、ガリラヤの人々はエルサレムの住民のようにふるまいました。すべての例は、倫理的、社会的にユダヤの住民よりエルサレムの住民の水準が高かったことを示しています。エルサレムはユダヤ教文化の中心地でした。そしていつでも『ガリラヤはエルサレムのようである』という言葉が加えられています。」(183~184ページ)

 よって、「エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。」というサフライ氏の発言と、婚約中にヨセフはマリアと関係を持たなかったというマタイ福音書1章24~25節の記述とを比較しても、やはりヨセフの先祖はエルサレムからガリラヤに来たという可能性の方がはるかに有力と思われます。


 ベツレヘムに実家も本家も親戚もない以上、ヨセフはマリアのための場所を自分で見つけるしかなかったのです。


 (以上の聖書の日本語訳は、日本聖書協会の新共同訳『聖書』によりました)

 
 ここまでの議論から、ヨセフの実家はベツレヘム云々の本田師の主張が成立しないことが明らかですが、しかし、ルカ福音書2章7節の「宿屋には、彼らのために場所がなかったからである。」(フランシスコ会聖書研究所訳。新共同訳では「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである。」)という記述は、厳然として残ります。

 もちろん、ダビデ王をはじめ、レハブアム王もアビヤ王も皆かなりの子だくさんであった(歴代志上3章1〜9節、歴代志下11章21節、同13章21節)ことを考えると、福音書の時代には浜の真砂のようにおびただしい人数となっていたダビデの子孫たちが、大都会エルサレムではなく小さな町ベツレヘムにいっせいに集まったとすれば、それは宿屋からあぶれてそこに泊まることができなかった人々が大勢いたとしても当然、という説明もつくことはつきます。

 しかし、なにかもっと他の特別な理由がなかったかどうか、さらに調べてみます。

 
 本田師は『釜ヶ崎と福音』において、次のように書いています。

 「それなのに、出産をひかえるヨセフとマリアはどの親戚の家にも入れてもらえず、宿屋にも断られた。これは何かあるわけなのです。実は、『マリアの妊娠がヨセフのあずかり知らぬことだった』というのがバレバレになっていたということのようです。」(128ページ)

 「つまりイエスは父親のわからない子どもだと、当時の人たちは気づいていたということです。まして伝統色の強いベツレヘムの村は、律法に違反したカップルを、いくら親戚とはいえ許し難い、ということで排斥したわけです。その結果が家畜小屋だったのです。だから、マリアもヨセフも罪人というレッテルを貼られた状態だった。」(129ページ)


 そこでこの本田師の主張を検証するために、さらにルカ福音書を読み進めていくと、2章22節に「清めの日数が満ちると」という表現が登場します。
 レビ記12章2~4節に「女が身籠って、男の子を産んだ場合、七日の間汚れる。つまり、月経による汚れの日数だけ汚れる。八日目にその子は包皮の割礼を施される。産婦は血の清めのために三十三日の間籠り。清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿に入ってもならない。」(フランシスコ会聖書研究所訳)という律法の規定があるからです。
 フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』のレビ記12章の欄外の注には、「2節で、産後の婦人が、月経や子宮出血病の場合(15・19ー30)と同様に、不浄のものとみなされている。」とあります。
 つまりモーセの律法上、女性の出産は、月経や子宮出血病の場合(レビ記15章19~30節)と同様に不浄が生じる機会と見なされていたのです。

 ルカ福音書2章22節の「清めの日数」という記述は、本田師の主張を否定する決定的な根拠となります。
 モーセの律法に、本田師が主張するような事情、つまり姦淫による「汚れ」に対する「清めの日数」の規定など、どこにも存在しません。
 
 もしマリアとヨセフが本田師の主張する理由によってベトレヘムの人々から排斥(忌避・拒絶)されたというのが事実であるとするなら、当然エルサレムの神殿でも同じ理由によってマリアとヨセフそして生まれた子イエスも排斥(忌避・拒絶)されていなければならないからです。
 当時のユダヤ世界の中で、最も律法が厳格に適用されていた場所は、ベトレヘムよりもどこよりも、それはもうエルサレムの神殿に他ならないからです。

 そもそも、申命記には「主の会衆」から排除されるべき人々として、次の律法の規定があります。

  混血の人は、主の会衆に加わってはならない。
  (申命記 23章3節)

 フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』の該当箇所の欄外の注には、この「混血の人」の説明として「不法な近親結婚、あるいは姦通による私生児を指すと思われる」とあります。
 また「会衆」については、「幕屋で、後代には神殿で、礼拝のために集まる人々のこと。」であると、同じく欄外の注にあります。

 バルバロ訳聖書(講談社)では、この「混血の人」の部分を「マンゼル」と表現しています。
 この「マンゼル」について、バルバロ訳聖書の欄外の注には、「これは意味不明なことばの一つで、私生児、あるいはヘブライ人とペリシテ人の混血児、または偶像と何かかかわりのある者などの意味であろうと言われる。」とあります。

 これらの欄外の注の説明は、ユダヤ教の多くの伝承やアラマイ語のタルグム(本文に短い注釈を加えた翻訳)それにギリシア語七十人訳・ラテン語ヴルガタ訳・シリア語ペシッタ訳などの古代訳聖書を踏まえていますが、これらの伝承や翻訳の多くは、「マンゼル」を「売春婦の子・姦婦の子・私生児」という意味で捉えています。

 他の日本語訳聖書ではこの箇所がどう翻訳されているかをさらに調べると、日本聖書協会の新共同訳聖書では「混血の人」という日本語ですが、同協会の口語訳聖書では「私生児」と翻訳されています。

 多くの翻訳から分かることは、この「マンゼル(mamzer)」というヘブライ語は、単に文字通りの「混血の人」という意味の他にも、多様な意味を含んでいて、その厳密な定義付けについては細部では諸説があるものの、律法の規定という見地で「不法、非合法的、不適切」な性関係から生まれた子は「マンゼル」というこの範疇に該当する、と見なす点では一致しているわけです。

 つまり、本田師が主張するようにマリアとヨセフが「律法に違反したカップル」「罪人というレッテルを貼られた状態」であったとするなら、生まれた子イエスを献げるためにエルサレムの神殿に入ることは許されなかったはずです。
 そもそもエルサレムの神殿は「律法に違反した」「罪人」たちが中に入ることを厳しく禁じていましたし、姦淫による「汚れ」は無期限で、そこに「清めの日数」などは存在しなかったからです。

 
 それでは話を戻して、もしもマリアがベツレヘムの宿屋に滞在したと仮定して、滞在中に宿屋で出産した場合に何が起こりうるか想像してみましょう。
 重ねて強調しますが、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』のレビ記12章の欄外の注に「2節で、産後の婦人が、月経や子宮出血病の場合(15・19ー30)と同様に、不浄のものとみなされている。」とあることを踏まえてここは考えるべきです。
 モーセの律法上、女性の出産は、月経や子宮出血病の場合と同様に不浄が生じる機会と見なされていたのです。
 レビ記15章から、マリアと周囲の人々に適用される可能性が大きかった掟を列挙していきます(この部分はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)。

 「その女に触れる人はみな夕方まで汚れる。」(19節)

 「その女が寝たものはすべて汚れる。また座ったものもすべて汚れる。その女の寝床に触れた人はその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。その女が座ったものが何であっても、それに触れた者はみなその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。もしその寝床の上、あるいはその女が座ったものの上にあったものに触るなら、その人は夕方まで汚れる。」(20~23節)

 本田師も『釜ヶ崎と福音』108ページでは、「女性の出産時の大量の出血、それも穢れと見なされた──いまでいえば、とんでもない差別ですけれども。」と書いています。

 福音書の時代に旅人が泊まった宿屋は、現代でも山小屋や最も安い料金の船室などに見られるような形態、つまり大部屋に昼間の旅装のままで雑魚寝するような構造であったと考えられます。
 もちろん二千年前の旅とは、現代人の旅のように着替えをたくさん持ち運んだり入浴やシャワーが当たり前だったりしていたわけでは、全くありませんでした。しかも季節は寒い冬だったのです。

 着替えも体を洗うのもままならない状態のそんな宿屋の中でマリアが出産し、そこにレビ記15章の掟が適用された場合、マリアと同じその部屋にいた人々もまた容易に「汚れ」の状態と見なされてしまうことになりうるため、その宿屋が大騒ぎになってしまうことは容易に想像できます。だから一目見て明らかに出産間近の状態であったマリアは、ベツレヘムのどの宿屋からも宿泊を断られたのでしょう。

 「もうすぐ出産しようとしている女性に対して、そんな杓子定規な対応を?」と現代人はだれしもそう思いますが、しかし当時はファリサイ派とか律法学者とか言われる人々がモーセの律法を杓子定規に適用していた時代だったのです。だからこそ公生活中の主イエス・キリストはファリサイ派や律法学者たちを度々とがめられたのです。

 つまり、マリアがベツレヘムで泊まる場所をどこにも見つけられなかった理由は、本田師が邪推するようなものではなく、マリアが誰の目にも明らかに出産間際と分かるほどお腹が大きくなっていた女性だったからということです。


 最後に司教様、これまで度々の長文投稿、大変失礼致しました。

ローマ留学組の本田哲郎神父様

投稿者 Archivista diplomato della Scuola vaticana di PDA presso ASV 投稿日時: 2014年02月15日 17時31分
聖フランシスコの足跡を行き、奉仕なさるのは素晴らしいではないですか。御同僚のルカ神父も一生懸命やっておられるようにお見受けしました。

ただ本田神父様はビブリクムの御出身であると聞きました。ローマへ留学した真面目な神学生・神父様方は反ローマ的な感情を持って帰ってくる傾向があるような気がします。たしかにローマには頭にくるような狡賢い出来事が多いですね。でも折角ですから、右手のわざを左手に知らせることなく、黙々と信ずる御仕事をなさったらいかがでしょうか。

Re:のんびり・サンデー

投稿者 Anonymous User 投稿日時: 2014年02月16日 21時43分
本田神父様は神父をおやめください。
釜ヶ崎だしにしないで。ホームレスはホームレス。
岩波書店もダメですね。くだらない本を出して。
本田神父様は注目されることで自己表現しているようですから
相手にしないで絶望を味わってほしい。
いい加減にしろ!

訂正

投稿者 Josephology 投稿日時: 2014年06月13日 23時31分
・本田哲郎師の「イエスの誕生」論の誤り(3)

 "「聖なる都エルサレム」(ゼカリヤ書11章1節)" → "「聖なる都エルサレム」(ネヘミヤ記11章1節)"

 "産婦は血の清めのために三十三日の間籠り。清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿に入ってもならない。" → "産婦は血の清めのために三十三日の間籠り、清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿に入ってもならない。"
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