寄り添う考

真っ赤な大きな朝日が雲間から顔をだし、天を染めた。 それでも!Blog

前信徒あげての周囲の伐採清掃ですっかり明るくなった教会はレデンプトール修道会の修道院でもある。2人の司祭が常住。母間教会訪問の目的は待降節黙想会、堅信、宣教奉仕者任命式と盛りだくさん。黙想会のテーマは、少し気取って「神様に寄り添う」。

さる2月の臨時司教総会の決議は「メドが立つまで離れない」だった。つまり、東日本震災から3年、次々とボランティア団体が撤退していく中でカリタスジャパンは残留を決定。さすがだ、と誇らしい感じがしたものだ。その根拠となったのがイザヤ49章15〜16節。

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。」もっとも司教団がこの箇所を引用しているわけではない。教会の体質はもともとそういうもの。だから、これは自分の勝手な解釈。

ところで、寄り添うというときのイメージは元気な人が病気の人に付き添う、母親が赤ん坊に添い寝をするであって、この逆ではない。だから、神さまが人に寄り添うという言い方はあっても、人が神様に寄り添うという言い方は普通はしない。しかし、実際は、信仰生活とは人が神様に寄り添うのでなければならない。

子供のことを心にかけてあれこれ世話をやく親のことを子どもが無視したり、うるさがるなら、当たり前だが親の気持ちを分かっていないことになる。逆に深い感謝の念があるなら親の気持ちが分かっていることになる。これも当たり前。その場合、親は子どもに、子どもは親に寄り添っているといえる。そんな関係が理想なわけで、同じことは人間と神様との間でも言える。

しかし、神様は24時間人間に寄り添っておられるのにそのことがよく分からないところに信仰の衰弱状態がある。堅信はそんな状態から、いつでもどんな時でもしっかり神様の気持ちに寄り添って生きようと決心するとき。以上飛行機に乗り遅れたため、3時間後の便を待つ間の黙想会振り返りの断想。続きは、ミサの説教で。

結局、欠航のアナウンスに主任司祭にSOSして教会にトンボ帰り。ヤレヤレ

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