祈りの駅伝(1)

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インターフェイス祈りの駅伝。
正式名称を知ったのは1月半ばだったと思う。
つまり、鹿児島の諸宗教懇和会で募金をしたことがあるが、そのいわば別バージョン。募金が駅伝になったと思ったらいいと分かった。

4回目となる京都マラソンに相乗りする形で実施するもので2回目。昨日の開会式のメインは本能寺での祈りの集い。そう、あの本能寺の変の本能寺。仏教をはじめカトリック、イスラム、神道、プロテスタントの諸宗教が一堂に会しての祈りは、かつて血に染まったお寺を和解と友愛の聖地に変えた。

お経の唱和の後の太鼓の音と共に高らかに繰り返される「南無妙法蓮華経…」は意味は解せないとしても、どこか栄光の賛歌にも似て心にズンと響いて感動した。突然だが「感動し合うとき」もう平和が実現していると思った。

「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17・21)というときのイエス様の意図はみんなの憧れではあってもイマイチはっきりしない。違いが分裂の元になるのでなく、違いに感動し合う体験を沢山することが一つになるための必須条件だと思った。その意味では、イスラム教徒にそんな思いでタスキを渡すのには今日的な麗しい意味がある。

和服姿の市長さんの挨拶はゆい緒あるお堂に馴染んでいたが、ご年配の管主の話が日本語と英語というのには、厳粛なお経の後だけに意表を突かれた感じで思わず顔を上げた。

ところで、そのインターフェイス駅伝だが、6年前ルクセンブルグではじまったもので、今回もルクセンブルグやフランスから10人ほどが参加した。そのうちの1人がボクのタスキを受けた。日本で音頭を取っているのは日本仏教会。

事務局のスタッフには若いお坊さん達が活躍し、なめらかな英語の通訳のスタッフがツルツル頭に袈裟姿というのも新鮮だった。ともあれ、どうやら、この仏教会からキリスト教連合会に話があって最終的にはボクに来たらしいと分かった。

で、明けての今日の本番。左足の違和感は相変わらずで不安ではあったが、いつものように何事もなく1時間15分で中継点にゴールイン。近くに住む姉や妹家族も中継地点で大?声援。

最後の中継所に到着したら、「お父さんおかえり!」の声が。無事の帰還を危惧する声が上がっていたという。最年長だし、無理もない。それにしても、全員初対面なのに気持ちよく声をかけ合うことができるのはさすがだ。(続く)

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