今朝の南日本新聞から二つの話題、残欠とフランシスコ教皇訪日の子ども版

残欠

子どもたちに分かりやすく

子どもたちに分かりやすく

今朝の南日本新聞の一面右端、記事の目次「残欠に思うこと」が気になって開いた。初めて見る言葉はいかにも古典的響きがあったからだ。案の定、正倉院に展示されている宝物「礼服御冠残欠」、紺玉帯残欠」だと分かった。要するに、冠や帯の完全な形ではなく、形状は想像もできないが、「欠けら」が展示されていたということらしかった。断片的に展示されているものを見る人が想像しながら復元することになる。

あこがれ

熊本から届いた巨大ケーキ

熊本から届いた巨大ケーキ

「『ないこと』に気づくこと、そこに目を向けるのは難しい。しかし、いったん意識されると、その「『不在の存在感』は強力である。」筆者は歌人で、短歌コンクールの審査員でもあるという。さすがに言葉を紡ぐ専門家だけあって言葉に力がある。こんな風に深い洞察と人々の心に届く洗練された言葉にあこがれるのだが…。

何事もなかったように

何事もないかのように咲く

何事もないかのように咲く

それはそれで、自分の中で何だろうという疑問は解決したが、文中に引用されていた短歌をめぐる筆者の感性に引かれた。「何事もなかったように 担任はニシダを飛ばして出欠を取る」。感想はそれぞれだと思うが、「何事もなかったように」という表現に筆者は、作者が「長期欠席のニシダの不在をないことにしてしまう学校。そこに敏感に反応した」と理解した。「一人いない」ことが毎日続いているというのに、心配そうな顔も見せることなく、淡々と出欠を取る先生に「ナンだ、この人は!」と義憤を覚えたに違いない。

他人ごとではない

揖宿にも桜島の灰が来た!

揖宿にも桜島の灰が来た!

そういえば、名簿には沢山の信者が載っているが、ミサに来なくなった人の方が多い。それでも、淡々と日曜日のミサをこなしている自分の姿が思われて身につまされた。前のブログで、教皇フランシスコが帰国されたら、マスコミがうんともすんとも言わなくなった日本の現状に否定的な見解を述べた。そんな話を職員室でしたら、「この間、どこかのテレビで池上さんが一時間ぐらい詳しくやっていました」と教えてくれた。そして、今朝の南日本新聞でもやはり教皇訪日を取り上げていた。子供用のページだったが、子どもたちにも発信してくれたことがうれしかった。マスコミが、教会に代わって宣教してくれたのは確かだ。

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