わけあってベトナム語にハマっているがミサの祈りに見る心の深さは

日本の比ではない!

信者が読んでいることが前提になっているのだが、第二奉献文でメメント(死者のための祈り)の日本語は次の通り。「また、復活の希望をもって眠りについた私たちの兄弟姉妹と、あなたの慈しみのうちに亡くなったすべての人を心に留め、」。ベトナム語では、正確さに自信はないが、すべての人、すなわち、先祖、祖父母、父母、親戚、友人を心に留め」となる。

続く言葉にも注目した。「いま、ここに集う私たちをあわれみ、(中略)すべての時代の聖人とともに」ベトナム語だと「あらゆる時代を通して立派に生きた聖人とともに」。

日本語の淡泊さは祈りに向かない?

きわめて個人的な好みの問題になるかもしれないが、祈りはもっと心情を吐露するものであってほしいと思う。個人的な祈りと公的なものとは違うということになるかもしれないが、淡泊だと頭を素通りする危険がないか。

「すべての人を心に留め」でもいいのだが、「先祖、祖父母、父母、親戚、友人」みんなが思いの中に蘇ることで心情は動く。同じように、「すべての時代の聖人」でもいいのだが、「あらゆる時代を立派に生きた聖人」となると、迫害にもめげず神様にまっすぐつながり続けた姿が目に浮かぶではないか。

こうして、祈りに幅というか潤いが増す感じはする。そこで思うのだが、こうした幅のある潤いに満ちた信仰の姿を身をもって感じながら育ったベトナムの若者たちなので日本に来ても信仰を失うことなく元気に集うことが出来るのではないか。

規範版にこだわる?

「きちんと」にこだわる日本人からは新しいミサ典礼書のローマ規範版に沿っていないのではないかと反論が来るかもしれないが、個人的な逸脱ではなく、司教団の逸脱だとすればバチカン公認と同じことになる。日本では、司祭と会衆のやり取りで、「またあなたの霊とともに」ではなく、「また、あなたとともに」の例がある。たったこれだけのことを認めてもらうのどれだけの時間を要したことか。

ベトナムの司教団がこれだけの逸脱を認めてもらった経緯に興味がわく。

空港近くのベトナムレストラン。生春巻き、とくにフォーは絶品。

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