昼下がりの読書
突然だが、ウソも方便というと、何となくごまかしているような、言い訳をしているような、少し後ろめたいような、つまりまっすぐな感じはしない。今日手にした佼成。あ、これは諸宗教懇和会懇の事務局をお願いしている立正佼成会の機関誌。毎月届けてもらっていて、開祖法話録、会長法話に目を通す。信仰体験のページも興味深い。シスター高木の「悲しみに寄り添いつづけて」は10回目。その他内容は充実していて学ぶことは多い。
方便から学ぶ
方便のことに話を戻そう。手元のデジタル大辞泉には「人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段」とある。便宜的、という説明ゆえに「ウソも方便」が生まれたのかもしれない。やはりここは、本命の専門書に当たらないといけない。久しぶりに、「法華経の新しい解釈」(庭野日敬著)を開いた。「方は真四角、それから転じて『正しいこと』」で、「便というのは手段。方便は正しい手段という意味。…もともとは『その人その場合にぴったりした教化の手段』という意味」だと分かった(96頁)。
ぴったり!を目指す
よそ様の教えをパクっているようで気が引けるが、教会でもこんな風にわかりやすい説明ができないものかと思う。個人的には、分かりやすさを心掛けてはいるものの、「神学的チェック」は欠かせないわけで、「ぴったりした教化の手段」を見出すに至ってはいないもどかしさはある。誰が聞いてもなるほどと素直に頷きたくなる純日本風の解説書を読むと、自分の説教が、よその言葉を翻訳しながら必死になって信者たちを説き伏せているように思えて取り下げたい感じになってしまった。なんと言えばいいか、それほどまでに、和と洋の違いを見せつけられたようなそんな感じになったことがショック。心に響く言葉を紡ぐ。その点、フランシスコ教皇は成功しているようにも思うが。「ぴったりと分かりやすく、に磨きをかけなければ!」修行への誓い?を新たにした今日の昼下がり。
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