聖性への呼びかけ
「あなたは、聖となることに呼ばれている」と聞いて、どんな思い、どんな感じか。ME日本企画会議の土曜日、こんな意味のテーマで分かち合った。この9月のアジア会議のテーマ「聖性への呼びかけ」に基づく。MEの質問というより、養成を受けている修練者向けという感じだ。対話こそが命と頑張っていたのに、そのため、対話のない自分としては、どこか正会員でないような違和感を覚えていたものだ。しかし、近年のMEの霊性は限りなく信仰の原点に近づいている。つまり、婚姻の秘跡が対話という手法だけでは深めることができないことに気がついて「神様にプラグイン」を言うようになったのが2008年のハイデラバードだった。神様につながらない対話は実りがないと確信するようになった。MEの大変革だったと言っていい。そう言えば、そうした気づき後のMEは穏やかになったように思う。対話によって眺めていたのはもちろん二人だったが、二人の間で働かれる神様の働きに気づくようになったということなのかもしれない。
信仰の原点とは
信仰の原点と言ったが、「聖なるものになる」というのは、自分が置かれた現実、遭遇した現実、とくにそれが自分の理解できない現実、自分の意に沿わない現実だった時に、とりあえずマリア様と共に「なれかしアーメン」と言って、少なくとも拒否しないことではないかと思う。そして、やはりマリア様と共に「どういうことだろう」と「思いめぐらす」ことではないか。つらい作業ではあるが、つい、「違う!」と声を上げたくなったときに、「ち!…」ぐらいで止めておく練習から始めたらいいと思う。これこそ、お互い空気のような関係になった夫婦にとっては、当初のような緊張感や遠慮もなくなったので、言いたいことを何でも言えることが身についているのでかえって難しいかもしれないが。ま、夫婦の皆さんには頑張ってほしいと思う。なによりも、つい「それは違う!」と言って議論したがる自分の問題ではあるが。
勉強はもういい
いや、これは夫婦だけの問題ではなく信徒、司祭全般に言えること。だから、少し乱暴だが、信者(信徒・修道者・司祭・司教)が、勉強をやめて、一斉にこんな練習を始めたらいいのにと思う。そうしたら、まず家庭が、お隣ご近所が、そして教会内が、そして修道院が、そして司祭団が穏やかになるに違いない。これこそ、平和を築くために来られた主の弟子たちが本気で取り組むべきことではないのか。この基本練習なしに、いくら勉強しても自己満足でしかない頭の体操で終わるだけだ。大人も子供も神学者も普通の信者も同じ課題を信仰という同じ土俵の上で気長に取り組むことに大きな意義がある。それが、すべての基礎をなす「神様にプラグイン」つまり、聖なるものになるようにという呼びかけに応えることになると思うからだ。どうだろう。ユーキャット推進者としては矛盾するが。
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