主の鍛錬
今日の第二朗読はヘブライ書。12・5-7、11-13に何度も出てくる言葉は鍛錬。この鍛錬の言語はギリシャ語で「子どもをしつける」という意味だという。ヘブライ書の著者は、「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、むち打たれる」(6節)とまで言う。「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」(11節)。しかし、後で喜びに変わる。
信者は打たれ強い
信者はどんなときに神様から鍛えてもらっていると感じるのか。思うようにならないとき、誤解されたとき、話がこじれたとき、聞いてもらえなかったとき、などなど。こうした事柄は、全て神様の手の中で起こっている。つまり、神様の許可のもとでなされている。私にとっていいことと思われたので許可された。つまり、神様の鍛錬のプログラムの一つ。そう思えないから、文句を言い、争いに発展する。そんなときは、神様を許さないばかりか裁いていることになる。そうではなく、「神様が鍛えて下さっている」と思う練習をすれば、次第に信仰の腕が上がって、打たれ強くなる。そして、信仰のコツがつかめてくる。信仰のコツとは「神様にプラグイン」すること。プラグを差し込まなければ電気は流れない。
教会でも争いが絶えないわけ
信者は勉強が好き。黙想が好き。しかし、神様にプラグインしなければ何にも変りはしないのだ。不平不満が絶えないのは、誰かが悪いのではない。不満のもとは、神様ではなく、自分にプラグインしているからだ。そのことに気がつくのが早ければ早いほど「義という平和に満ちた」(11節)生活に変えられるのだ。このことをボクはMEの霊性から学んだ。しかし、そのためには孤独の祈りが必須。これは、これまでの司祭生活で学んだ。問題のない社会はない。しかし、しばしば、問題が問題でないことは多い。そのことに気づくことも少ない。だから、いさかいはいつまでもなくならない。ああ、ヤヤコシイから今日は止めよう。
ミサ説教音声
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