復活節第4主日・糸永司教感謝ミサ
ヨハネ福音10章はよい羊飼の話。
「私はよい羊飼いである」(11節)で始まる今日の福音は、聞くものを二分する。まず会衆は自分たちの主任司祭のことを思うだろうし、司祭たちは身を堅くしながら、「自分は果たして善い牧者と言えるだろうか」と幾分自責の念を抱きながら聞くかも知れない。
しかし、もし、そんな風に聞くのはイエスの本意ではない。イエスご自身は会衆は羊で、司祭は牧者という色分けをしているのではない。
「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、オオカミが来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・・」(12-13節)「私はよい羊飼いである。」(14節)
「しかし、ボクはそんな雇い人なんかじゃない。ボクは違う!羊のために命すら惜しまないよい羊飼いなのだ!」ボクには、イエスがそんな風に叫んでいるように聞こえる。
つまり、会衆も司祭も等しく「私のよい羊になって欲しい!」と訴えているのだ。立場ごとに聞き分けるならイエスの本意を聞き逃すことになるから気をつけたい。つまり、会衆は「司祭たちはよき羊飼いとして私たち羊が迷うことのないようにしっかり導いて欲しい」と、時には批判を込めて願い、一方司祭たちは、「自立した羊になるべき。司祭頼みが多すぎるのはいかがなものか」と応酬したくなるのがオチではないのか。
それで何が問題かと言えば、どちらも回心しないまま自分の不都合を人のせいにし合うもっとも危険なパターンに陥ってしまい、イエスの羊の群れになるという根本的な課題が忘れられて、責任逃れの「ただの人の集まり」に堕してしまう。
そうではなく、みんながイエスのよい羊になる道を真剣に模索するとき「イエス好みの羊」、「イエス好みの信者」が誕生するのだ。イエスのよい羊になる道を模索?簡単なことだ。
①自分を第一にしたがる自分の現実:司祭の場合だと・プライド・知識・立場などなどにこだわり高圧的になりがち?信徒の場合だと・人と自分を比較・自己卑下・好き嫌いなどなどで心を閉ざしがち?これらはいずれも自分が第一でないことに対するゆがんだ反応であって、イエスはあくまでパートタイムの羊飼い。そんなこ「だわり」から自由になることが回心。よい羊への第一歩。
②頭での信仰に気づくこと:不平不満が多い・人の欠点が我慢ならない・自己主張が強い・などなど。
③いつも感謝する:「主よありがとうございます・感謝致します・賛美致します。」この射祷を四六時中クチにする。
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Re:復活節第4主日・糸永司教感謝ミサ
昨日の御ミサ&パーティ、お疲れ様でした。
初めて真近で郡山司教様を拝顔致しましてとても人気がお有りになり、また親しみ安い
お人柄なのだと感じました。
叙階式の時とは印象が全く違いました。
昨日のお説教は今の自分に重なる部分が多く、「ありがとうございます。感謝します。
賛美致します。」の言葉が心に強く残りましてこれから実行しょうと素直に思いました
。ありがとうございました。
復活節第4主日・糸永司教感謝ミサ