主の昇天
主の昇天。主の復活は、死と復活とセットなので分かりやすいというか、信仰者としては実感できる出来事。つまり、「ああ、これがボクの復活だ」と確認することができるのだが、昇天となると、イマイチだ。
雲に包まれ、やがて見えなくなった主を目で追いながら、あっけにとられて口あんぐり、の弟子たちを想像するのはたやすいが、実際は、まさに雲をつかむよう。これは、生身のイエス様を思うからそうなのであって、本当は、復活の時点で生身ではない。と、恥ずかしながら、今日気がついた。
もっとも、ヨハネ21章は、復活の主が、がリラヤ湖畔で弟子たちと朝の食事をとられたことになっている。ただ、「パンを取って弟子たちに与えられた」とあって、「一緒に食べた」とは記されていない。ともあれ、復活の主はもはや、生身ではない。正式には、栄光体という。イメージはよくないが、まさに変幻自在。
で、昇天と聞いて、種子島から打ち上げられる宇宙ロケットを連想する必要はない。では、どうなったか、と聞かれたら、「肉眼でとらえることができない復活の主本来の姿に戻られたわけで、復活後のご出現は、あくまで弟子たちへの特別サービスだった。そのサービスは昇天、つまり、父のもとに帰られたことを弟子たちに納得させることで目的を果たした。
で、今は、御父の右に、ご聖体の中に、人々の中におられる。」天から下られて、また天に戻られた(ヨハネ3.13)ワケ。
ところで、ボクにとっての昇天とは、難儀な地上での救いのわざをなし終えられ、その使命を果たされことに対して心から主の労をねぎらい、感謝とお疲れ様を申し上げる日。そして、あとは「聖霊が何とかしてくれる」ことにすべての希望を託して、神殿での弟子たちのように(ルカ24,52-53)、安心して喜びの日々を過ごしたい、と決意を新たにする日。で、今夜は三人で、スパゲッティとワインで乾杯するというワケ。
3:00の修道女連盟のミサ後、差し入れの花の苗を使命を果たしたユリの側に植えた。
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