そこのけ、そこのけ主のお通り!
1.4ミサ説教音声(mp3)
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イザヤの預言60,1-6
2004.1.3記
エルサレムよ起きよ、光を放て。あなたを照らす光りは昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王達は射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて見渡す通い。皆集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、、娘たちは抱かれて進んでくる。その時、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富はあなたのもとに集まる。ラクダの大群、ミディアンとエファの若いラクダがあなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えてくる。こうして、主の栄誉がのべ伝えられる。
今日のイザヤの本文は、例によって、一読しただけでは何のことかよく分からないが、なんとなく明るい希望に満ちた描写が多いことぐらいは分かる。そして、それが自分の身にも起こっているらしいと同意できたら嬉しい。そうなると、他の箇所が自分には無縁に思えてもとりあえずは見通しが立つ。
「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」
闇、暗黒は、「無知・指導者の不在・不幸」の象徴。そう聞けば、どうしても辛かった夏が蘇ってしまう。ボクの指導者は主イエス一人。そう分かっていても、その指導者から何とか答えを引き出せないものかともがき、かすかな光にたどり着くまでは闇だ。しかも、光は見え隠れし、そのたびに一喜一憂。光がもはや消えないことを確信できるまでは闇。それは、まさに不幸そのもの。
闇が光に取って代わられた今、イザヤの言葉に同意できる。それが未来への約束であることも。もっとも、また闇に覆われてしまうことがないとの保証だと言うほどの自信はないが。
そんなボクに、指導者の主はあくまで優しく、いたわり、光に次ぐ光を下さった。クリスマスに洗礼を受けた6名の子供たちと一人のお母さん。いずれも修羅場の幼稚園から。神様の働きって、どんなヘマをやっても無関係らしい。そう思ったほどだ。それ以上の安心の根拠、励ましがあるだろうか。修羅場を恵みの場としてくださった主の働きにカンパイ。いよいよお母さんたちを動員しての教会学校が緊急の課題となった。
こうして、主の光が闇を照らし、主の働きが明確になり、そうしてボクの心も周りの一人一人の心も主の光を受けて、威風堂々、「そこのけ、そこのけ主のお通り!」と高らかに声を上げる主のご公現。