ザンブとヨルダン川に身を沈めた受洗者イエスの思いとは…
1.11ミサ説教音声(mp3)
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ルカによる福音3,15-16;21-22
2004.1.11記
そのとき、民衆はメシアを待ち望んでいていて、ヨハネに、もしかしたら彼がメシアではないかと、みな心の中で考えていた。そこで、ヨハネはみなに向かって言った。「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりも優れた方が来られる。私は、その方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
私たちの洗い、ヨルダン川での主の洗い、と言えば、イスラエルが海を渡って果たした出エジプト、と連想するのは聖書のテーマ。イエスが、かつて先祖イスラエルが多くの誘惑に負けた荒野で、同じような誘惑(ルカ4:マタイ4)を体験されたことと思い合わせるとき、イエスには不要とも思える洗礼が、イエスにとっても、意味深いことだったらしいと分かる。
キリスト者にとって、自分もまた、そんな御父のような同行者でありたい。希望を失いかけたイスラエルのために海にさえも道を通された御父のように、信頼と希望と勇気をもたらす同行者でありたい。あるときは、行き惑う人々の道標として先に立ち、あるときは、でこぼこ道を照らす光として。
こうして、洗礼を受けた人も、未来の信者(未信者)も誰もが、海や荒野のようなどんな試練にも負かされることのない人生。何が起ころうと、「それでも」再起を目指すしたたかな人生。つまり、誰もが、人生のあらゆることを御父の働きの場として受け入れ、御父の夢の実現に協力を惜しまない私の友であって欲しい。
そうして、イエスは、両手を硬く組み、ザンブとヨルダン川に身を沈めた。