復活の信仰?ビミョウ…
2004.2.8ミサ説教音声(mp3)
使徒パウロのコリントの教会への手紙 1コリ15,12・16-20
キリストは死者の中から復活したとのべ伝えられているのに、あなた方の中のある者が、死者の復活などない、といっているのはどういうワケですか。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちは全ての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際。キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
コリントの信者たちのように、「死者の復活などない」と言うことはないとしても、復活の信仰を生きることは、同じほど難しい。「からだの復活…を信じます」と復活の信仰を高らかに宣言したとしても、八方ふさがりの闇に巻き込まれた時に、復活の信仰に踏みとどまることは大変難しい。にっちもさっちもいかなくなった人に、「復活の信仰」を説くことは更に難しい。「これは死と復活の信仰を生きるチャンスだ」などとけなげに思って身の処し方を考えることは更に更に難しい。
もしも復活の信仰を持っているというなら、すぐに不安になったりするのか。あ、いや、この質問は見当はずれ。イエス様も不安にもだえ苦しまれたから…。むしろ、復活という輝かしいイメージの信仰を持っていながら、いつも前向きのプラス思考ではなく、失敗した時のことや人の評価を恐れてばかりいるのか。「性格だから…」と直ぐに弁解するのか。
放蕩息子のお父さんから私の復活も期待され、祈ってもらってもいるというのに、ありのままの自分を認め、受け入れ、そして、好きになれないのか。人と自分を比較ばかりしているのか。そして、人にも自分を取り巻く状況にも直ぐに悲観的になるのか。
復活の信仰を持っていると言いながら、どうして、こうも赦しが難しいのか。不平や不満が絶えないのか。バカにされた、無視されたと大騒ぎするのか。「そんなこと言われても、人間だから当たり前」と直ぐに思ってしまうのか。
パウロばりの理屈を展開しようとしたのだが…。
ああ、復活の信仰ってナンナンダ!ひー君なら言うかも知れない。「ビミョウ~。」