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悔い改めないと滅びる」と言われても…

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 18時55分

2004.3.14日ミサ説教音声(MP3)

今週の聖書

ルカによる福音13,1-9

(略)「あなた方も悔い改めなければ、同じように滅びる。」そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がブドウ園にイチジクの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間このイチジクの木に実を探しに来ているのに、見つけた試しがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もし、それでもだめなら、切り倒して下さい。』」

今週のポイントボクの信仰では、罰を下さる神様という観念がないので、こんな話しを聞くと正直困惑してしまう。
 
 聖書には、最後の審判の話があって、自分が山羊の列に並ぶか羊の列に並ぶことになるか(マタイ25章)に関心がないわけではない。また金持ちと貧乏人ラザロの話しもあって、死後、金持ちは炎に包まれる結果になった(ルカ16章)という話しもある。

 どんなに怖い話を聞いたとしても、怖いという実感は湧かないし、むしろ、子供の頃、夏の真っ盛りの炎天下を、帽子もかぶらずに山野を駆けめぐり、熱を出しては母に叱られたことを思い出すのはどうしてか。母は、看病しながらいつも言っていた。「帽子をかぶらないで遊ぶからこうなる。今度熱を出したら知らないからね!」しかし、このオドシは効き目がなく、何度熱を出しても、母は看病してくれた。

 イエス様の福音がオドシとは思われないが、もしかして似たようなものかも知れないと思ったりする。だから、聖書の中の怖い話しを聞くと子供の頃の母の言葉を思い出すのかも知れない。母が冗談を言ったのではないことは口調で分かった。しかし、強い口調でも、母の手は邪険でなく、こまめに額のタオルを取り替え、必ず、何か食べたいものがあるかと聞いた。だから、安心して熱を出していたようにも思えてくる。

 そうなのだ。口調が問題なのだ。もっとも、イエス様の口調を、耳で確かめたことはないのだが、イエス様は、人々が、簡単に悔い改めないことぐらいは、とっくに分かっていて、それでも、言わざるを得なかった。人々への愛故に。どうせ他人だからどうなろうと「知らない」などと言えない。イエス様に他人意識はなかった。だから、イエス様の口調が、どんなに厳しくても、イエス様への親愛の情と信頼はいささかも揺ぐものではない。

 だから、ボクにとって、罰や滅びは、信仰の主題とはなり得ないのだ。主題は、あくまで悔い改め。たとえ、悔い改めに失敗しても、つまり、「ワシガ、ワシガ」の我をとおして、人々に蛾のように不快感を与えたとしても、イエスに駆け寄る。そんな信仰を気に入っている。


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