現在の場所: ホーム Binder 日曜日のはなし 2004年 たとえ話、抵抗勢力へのメッセージ
ナビゲーション
最近のエントリ
ペトロパウロ休日 2014年06月29日
有難うシスターたち 2014年06月27日
大分教区司祭研修会 2014年06月26日
32年ぶり班制度 2014年06月24日
梅雨の晴れ間に 2014年06月19日
 
編集操作

たとえ話、抵抗勢力へのメッセージ

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 18時57分

2004.3.21ミサ説教音声(mp3)

今週の聖書

ルカによる福音15,1-3 11-32

 徴税人や罪人が皆、話しをこうとしてイエスに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。そこで、イエスは次のたとえを話された。
 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前を下さい』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日も経たない内に、下の息子は全部を金に換えて、遠い国旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。(略)『…ここを立ち、父のところに行って言おう。…』(略)
 そして、彼はそこを立ち、父親の元に行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、哀れに思い、走り寄って首をだき、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親はしもべたちに言った。『急いで一番良い福を持ってきてこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして宴会を始めた。
(略)

今週のポイント*あちこち省略が多いですが、お手元の聖書で、是非、本文全体をお読み下さい。

放蕩息子のたとえ話、正確にはいつくしみ深い神の愛のたとえ話。
 いずれにしても、冒頭の不平をイエスが聞いたのは、おそらく一度や二度ではなかったに違いない。この手の不満は、まさにイエスの改革の前に立ちはだかる「抵抗勢力」であって、イエスにとっても頭の痛い問題だった。つまり、イエスは、ファリサイ派や律法学者といった抵抗勢力をどう封じ込めることが出来るか、いや、神の思いの深さをどうしたら彼らに分かって貰えるかに腐心されたのだ。そして、夜明けに一人で祈ったりしながら、生み出したのが、多くのたとえ話だった。
 今日のたとえ話も、そうしたイエスの長く深い孤独の祈りの中から生まれた傑作だった。何度も何度も味わいなおしながら深めていった、神の愛に対するイエス自身の深い確信に裏打ちされたものであることを忘れてはならない。つまり、この話は、神の愛を説く時のイエスのとっておきのお話しだった。イエスが、神の愛の測りがたい深さを、いかに、身にしみて感じ、味わっておられたか、話しそのものの長さからしてもうかがうことが出来る。神の愛こそ、イエスが一番伝えたかったことだっから、当然といえば当然だが。
 ところで、イエスの福音に対する現代の抵抗勢力はといえば、私たち自身に他ならない。で、何度も何度も読み直し、かつ微にいり細にいり、じっくり味わうなら、あなたもやがて、あらゆる抵抗を諦め、素直になって、広く開かれた御父の両手に自ら飛び込んでいきたくなるに違いない。そのことなしに、真の回心は始まらない。
  くどいようだが、世の中の人は誰でも、自分への反省や後悔の念は持つものだ。しかし、キリスト信者というのは、それでも、自分自身を断罪しない。あの弟のように、恐る恐る、言い訳しながら、息子と呼ばれる資格がないことも重々認めながら、それでも、御父主催の歓迎パーティーの主賓になることを拒まない。飛躍するが、ゴメンで、済むなら、ミサなんかいらない。
 復活祭は近い。あなたも主賓になれる。


Powered by Plone CMS, the Open Source Content Management System

このサイトは次の標準に準拠しています: