死のふちからの生還
2004.3.28ミサ説教音声(mp3)
ヨハネによる福音8,1-11
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆がみな、ご自分のところにやってきたので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は、姦通をしているときに捕まりました。こういう女は、意思で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るためにこう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして、また、実をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯さないように。」
「律法、律法というけれども、律法を叫ぶ時代は終わったのだ。まだ分からないのか。お前たちの誰が、この女を罪に定める資格があると思うのか。みんな罪人ではないのか。まず、自分のことをよく見るがいい。心にやましいことのない人間なんて一人もいないのだ。自分に正直であれ、…。私の言動をよく見れば分かることなのに、信じようとしない。お前たちにはいくら話しても無駄…」と、そんなことを書き連ねていた?
ともかく、いつものイエスなら、この時とばかりに、声を大にしての宣教活動が始まったのではなかったのか。「この人がメシアではないのか」と町中が騒然となった前日のように。なのに、今回はどうしてだ。ウジウジと暗い。まるで、すねた子供みたいに、かがみ込み、聞こえないふりをして地面に何やら書いてばかりいるとは。
いや、分からないでもない。民衆に向かっての宣教活動中に、またも、繰り返された指導者たちの妨害。挑発。土足で踏み込まれた感じのイエス。かなり頭に来た。まともに話す気になれるわけがない。「この不信仰ものどもが…」とブツブツ言いながら冒頭の文句を書かれた?
それもどうでもいいとして、女の人に目を向けると…。今にも石の雨が降り注ぐのではと身を堅くして、その時を待っていた?そして、これまでの不運な人生の悲惨な場面が走馬燈のように脳裏を駆けめぐり、人々の罵声の中で足蹴にされ、路傍で果てようとしている虫けらのような自分を眺めていた?いや、もしかして、この人は、本の出来心で道を誤ったのかも知れない。そんな自分の不運を嘆きながら、自分を責め、どうすることも出来ない現実に動転している?
いや、そんなこともどうでもいい。やっぱりイエスに戻ろう。この人が犯した罪は重大。ゴメンで済むようなものではない。かといって、石打ちの刑にすればいいというものでもない。問題は、この人が罪の生活から離れて、そして、捕まえた人たちも、律法ばかりを叫ぶのでなく、律法を超えた神の愛に気づいて、共に神を称えるようになること。みんなが罪というどぶの中にいること。そこにこそ、きれいな神の国の花は咲かなければならないこと。私は、そのために来た。
かくして、九死に一生を得た女の人の話しはハッピーエンド。
いや問題はこれからだ。どんなことにしろ、あなたが意気込んでいる時、「それはひどい!そんなバカな!そんなの常識、世の道理!」と元気な時、チョット立ち止まって、イエスをちらっと見たとして、頷いているイエスがいたら○。かがみ込んでいるイエスがいたら△。どっちでもないとしたら、もしかしてあなたは律法学者かも。
日一日と、主の受難と復活が近づいている。頷くイエスと出会えますように。