現在の場所: ホーム Binder 日曜日のはなし 2004年 自己滅却、友情の証
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自己滅却、友情の証

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 18時59分

2004.4.4のミサ説教音声(mp3)

今週の聖書

使徒パウロのフィリピの教会への手紙2,6-11

キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全てイエスの御名に跪き、全ての舌が、「イエス・キリストは主である」と公にのべて、父である神を称えるのです。

今週のポイント勝利を目前にした9回裏のよもやの大逆転。大歓声の中で抱き合って喜ぶ勝者と涙をのんで肩を落とす敗者。しかし、後者にとって、それがいかにくやしい出来事だったとしても、やり直しはいくらでもきく、青春の一コマに過ぎない。そして、やがて、もっと厳しい現実があることも知るようになる。
 ところで、福音にこだわる時、一筋縄ではいかない厳しい現実、深刻な事態は、立場、メンツ、肩書き、経験、学歴、プライドなどなど、私たちを縛って放さない日常の現実に他ならない。この私の現実こそ、福音の価値観をなし崩しにしている最強軍団と言える。
 一方、今日のパウロの手紙は、そんな私たちの前に立ちはだかる、まさに難攻不落の砦。私のどんな自己弁護も、理屈も、常識をもってしても落とすことは不可能に近い。そう分かっているのにもかかわらず、素直に甲を脱がないところに、私の病の深さがある。いや、ここは敢えて、「私たちの病」と断言しよう。
 この病は、先祖伝来のもののようで、いわば、ヒトの証のようなもの。この病の克服に敢えてチャレンジされたのが我らがイエス様。だから、救い主と呼ぶにふさわしいのだが、さすがの救い主も、十字架という荒技をお使いになったものだから、ヒトの戸惑いは大きい。もっと、楽な治療法を考案なさっても良かったのでは、との思いがいつもあるので、「良薬は口に苦し」と一気に飲み込む気力が湧きにくい。それでも、これまでに、気力を奮い立たせて何度も飲み干したことはある。しかし、完治した試しはない。いや、たとえ、完治などしていないとしても、症状がずいぶん改善されて、晴れ晴れとした気持ちになったことは数知れない。えっ、全く改善なし?ウ~ン。
 実は、この病、「生涯治療」を覚悟する必要がある。生涯治療って?だから、あの十字架のところに行って、症状を救い主に話し、よりふさわしい治療法を一緒に探すことヨ。
 しかも、その気になって、取り組まないと効果は薄い。そうなると自分も辛いが、周りの人も辛くなる。しかも、救い主としては、命がけで伝授した取って置きの治療法なだけに、なお辛い。ここは一つ、お互い、「私たちの主イエス」の顔に泥を塗るようなことのないよう気を引き締めて行こうと言うしかない。
 ホザンナ!と声高らかに主を迎える日は、皮肉にも、主の受難の主日。それでも来週は復活祭ダ~!


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