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ヨハネの夢に誘われて

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 21時25分

今週の聖書

ヨハネの黙示7・9,14b-17

私ヨハネが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身につけ、手にナツメヤシの枝を持ち、玉座の前と子羊の前に立っていた。
長老の一人が、私に言った。「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。それ故、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。

今週のポイント毎朝一人で捧げるミサは志布志教会に赴任して初めて体験すること。当初、一人では意味がないと、日曜司祭?になったこともあったが、間もなく一人の参加者を得るようになり、やっと人並みに。しかし、三年目半ば、彼の都合が悪くなり、また一人に。ほぼ前後して、難問奇問続出。「ワシが祈らんと誰が祈るか!」己にむち打つかのように、毎朝6:30のミサに励んだ。そして、まもなく、ミサはキリストの祈りだった!頭から腹へ。キリストの祈りに無意味なものなどあるはずがない。過去の非礼を詫びつつ、キリストの祈りを押し頂くように捧げて出会ったヨハネの黙示。
 かつて、中国に流されたイエズス会司祭テイヤール・ド・シャルダンは「全宇宙を捧げた」という。
 「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数え切れないほどの大群衆」こそ、キリストの祈りの対象、その実り。しかし、EU大連合誕生に湧く一方で、仲間に入れて貰えないですねる国があったり、神の国実現へ向けての国家的取り組みをあざ笑うかのように武力侵攻、いや信仰を脱することが出来ない裸の王様は後を絶たない。
 そんな現実にめげることなく、繰り返されるキリストの祈り。ヨハネこそ、キリストの祈りを永遠に語り継ぎ、しかも、まだ見ぬ現実の世界を生き生きと描き続けて、夢の世界へ誘い続けるキリストの夢の伝承者。
 ミサを捧げるとはそういうことだった!頭から腹へ。
 我がミクロの現実も、「ミサ?それがナンボノモンヤ」とばかりに、ミサ抜き信者の大群に青息吐息。「玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。」フッと肩の力が抜けて我に返り、そして顔が輝いたよう。


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