井中の蛙(せいちゅうのあ)今日も行く
ヨハネの黙示21・1-5a
私ヨハネは、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た。その時、私は玉座から語りかけるおおきな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自らと人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、私は万物を新しくする」と言った。
年金「未納三兄弟」と揶揄した当人も未納だったとは笑止千万。足下をすくわれるとはこのこと。政治不信は、今や最高潮。経済不況、政治不信。それでもつぶれない日本の底力。
底力といえば、神の国というか教会の底力こそ我らが誇り。ボクとしては、宣教の実績がいかに低かろうと、ミサ抜き信者がいかに増大しようと、司祭の高齢化がいかに進行しようとも、深刻に落ち込まないのはナンデダロウ。阪神タイガースを蘇らせた熱血監督に言わせると、「負けてもともと」が身にしみてしまっているのかも知れない。だから教会は発展しない?のかも知れない。
ヨハネの夢の壮大さに浸っていていると、ボクの現実は、小さな井戸の世界に思えてくる。しかし、あの政治家の轍を踏みたくなければ、井戸の世界で起こったこと、見て、触れたこと(1ヨハネ1,1)を大事にしなさいとも。そんな思いも増幅してくる。
確かに、信仰の面白さ?は小さな井戸の中でも、「新しい天と新しい地を見」ることが出来ることだと思う。ほじくり返す感じがしないでもないが、例えば、ということで言うと。
小さな井戸の中、居心地が良く、惰眠をむさぼっていると、ある日、ドボン、ドボン。近所の悪ガキどもが入れ替わり立ち替わり来ては石ころを投げ込み、誰の石ころが大きな音を立てるかを競って遊んだ。狭い井戸の中。身を守るのに、まさに命がちぢんだ。時は流れ、やがて井戸は涸れ、干上がった井戸の底で一息ついていると、ある日突然、ウォ~ン!ウォ~ン!今度は、誰の声が一番響くかだって。マッタク!
こんな調子だ。井の中の蛙…とか言うが、井戸の中だって結構変化に飛んでいて退屈しない。石ころを投げ込みたくなる海も消えたと、つかの間の幸せを享受したり、大声競争で現実に引き戻されたり、それなりに翻弄される井戸の中。あ、そうそう、海というのは、神様の足を引っ張る現実のこと。ついでに、ボクの足もかなり引っ張られるが。
大海の様子が今後どうなるかも気になることではあるが、「見よ、私は万物を新しくする」との玉座からの声に励まされて、とりあえず、混沌とした今と未来を捧げながら新しい天と新しい地の到来を待つ。思いがけない朗報や胸が痛くなる辛い話しに一喜一憂しながら、神が、あの人と共に住んでくださって、あの人もまた神の民となる日を祈り続ける。大海に翻弄される現実と身近な人々全ての聖変化を祈り続けるキリストの祈り。神の国信仰に生きる教会の底力の秘訣。井中の蛙も悪くない。