聖霊,自由へのナビゲーター
2004.5.30(聖霊降臨)ミサ説教音声(mp3)
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使徒たちの宣教2・1-11
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった。すると、一同は聖霊に見たされ、”霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして、誰も彼も、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんでいった。「話しをしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれ故郷の言葉を聞くのだろうか。(略)彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
念願の聖地巡礼を果たしたTさんから、喜びの第一声が届いた。「…とも話が出来た!」はっきりとは聞き取れなかったが、どうやら、言葉も通じないはずの人とも話が出来たことに感激している風だった。弾んだ声の調子で、初めての海外旅行を十分堪能した様子が手に取るように分かった。
ところで、聖霊に満たされた弟子たちが、エルサレムの人々をアッと言わせた。言葉は悪いが、「あのド田舎のガリラヤ人が!?」と「驚き怪しん」だほどだったという。それもそのはず、弟子たちは文化はつる「異邦人のガリラヤ、闇に住む民」(マタイ4・15)の出身。どこかおどおどして、見るからに自信なさそうで頼りなげ。そんな弟子たちが、自信満々、威風堂々。どこの国の言葉でもぺらぺら。文化の香り高いエルサレムの住人でなくとも腰を抜かしたに違いない。
ところで、海外旅行でのもっとも印象的なことの一つは、「通じた!」体験ではないかと思う。初めての外国。緊張とおどおど。ホテルで買い物のとき、「えっ!?はっ!?どうしよう!…」の連続。やがて物珍しいことばかりの世界にも慣れて、勇気モリモリ。「エート、How much?」に始まり、行きずりのガイジンから声をかけられ、カタコト英語でコミュニケーション。そして、誰かにしゃべらないではおれないほどの充実感と即席の自信。誰もが辿る海外旅行での成長の記憶?「通じた!」体験は偉大。
この「通じた!」体験こそ、実は、自分の中からあらゆるバリアー障害物が除かれ、自由になった体験ではなかったのか。「出来ない、怖い、はずかしい、どうしよう…」という障害物が取り払われた爽快感。デキナイままでも出来た体験。
教養もない、学問もない。私たちはガリラヤ人。復活、昇天を体験しても、今ひとつスッキリしない。そんな弟子たちの様々なこだわりや自信のなさを瞬時に吹き払うほどの神の疾風(はやて)。立ちつくす弟子たちの前に立つ懐かしいイエス。イエスが微笑み、コックリ頷く。不安顔の弟子たちも思わず微笑み、コックリ。穏やかな顔と顔。弟子たちの中に高まる歓喜のうず。やがて、
ヤッター!先生だー!、バンザーイ、イエス、復活、バンザーイ!アレルヤ、主、アレルヤ!
弟子たちは、口々に、思いつくだけの喜びの叫びを上げた。誰はばかることのないその姿に、見ている者は誰もが圧倒された。驚き怪しみながら、それでも、「神の偉大な業を語っている」ことだけは誰もが分かっていた。
聖霊降臨。弟子たちが主との間で初めて体験した「百パーセント通じた!」瞬間。そして、透明感あふれる自由への旅立ち。
不安の出国。歓喜の帰国。Tさんの新たな巡礼が始まった。