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信者とは何者か

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 21時40分

2004.6.20(年間第12主日)ミサ説教映像(wmv.3.3Mb)

今週の聖書

ルカによる福音9章18-24節

 イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は私を何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され三日目に復活することになっている。」それからイエスはみなに言われた。「私についてきたいものは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うのものはそれを失うが、私のために命を失うものはそれを救うのである。」

今週のポイント祈りの中でふと頭をよぎった思い。「実際のところ、人々は自分のことを一体どんな風に理解してくれているんだろう。預言者?魔術師?神の使い?・・・。」そばのペトロが正解を出した。少なくとも弟子たちの確認は取れた。だが、ことに直面したとき彼らのメシア信仰がどれほどのものか?私たちには周知のこと。そして、挫折した弟子たちが、どうしてイエスの弟子としての歩みを再興させたかも周知の事実であるにもかかわらず、今日の教会には、大小を問わず、どうして揉め事が耐えないのか。
 政治の世界や世の人々のことはともかくとして、教会当局の信者というのは、揉め事を簡単に解消できる鍵を手にしているにもかかわらず、実際は、コトはそうたやすくないところにイエスの弟子の流れを汲む信者集団の問題の深さがある。
 問題の深さとは?それは十字架無視の信仰。十字架は、イエスのために「命を失うものはそれを救う」という逆説の真理のいわば信者の踏み絵。実は、十字架という踏み絵を踏んでいるにもかかわらず、その痛みをイエスご自身だけが感じているところに信者の罪の深さがある。そして、踏んでいるにもかかわらず踏んでいる実感もないまま信者であり続けている事実が罪と言ったほうがいい。
 何故そういうことが起こるのか。実は、揉め事の渦中にあるとき、しっくりしない関係になったとき、人を赦せないでいるとき、人は、アタマを駆使して自分の正当性を主張しようとする。これは、自然の成り行き。この自然の成り行きに棹差したのが十字架のイエス。難しい頭の体操は得意なのに、この簡単な信者のアイデンティティーのからくりが分からない。それも私たちの弱さとしよう。事実そうなのだから。しかし、私たちの更なる問題は、アタマの体操の結果、「この問題に関する限り復活の信仰は破綻する」という自分なりの結論を得ていること。イエスの復活を否定している自覚が百パーセント欠如していることに気がつかないこと。そこでは、いかなる話し合いも分かち合いも実を結ぶことはない。あ、またアタマの体操が始まりそう。
 いずれにしろ、漁師たちがイエスに呼ばれて弟子としての歩みを始めたばかりのレベルを一向に脱することが出来ないでいる私たち信者にイエスが今日も問う。「世の人々は、アンタたち信者を何者と言うか。」


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