あなたが十字架の不足を満たす
使徒パウロのコロサイの教会への手紙1章24-28節
皆さん、今や私は、あなた方のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は、御言葉をあなた方に余すところなく伝えるという務めを私にお与えになり、、この務めのために、私は教会に仕えるものとなりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が、異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなた方のうちおられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、私たちはのべ伝えており、全ての人がキリストに結ばれて完全な者になるように、知恵を尽くして全ての人を諭し、教えています。
パウロと一緒に、「私はキリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています!」と豪語したいところだが…。あ、その前に、先ずキリストの苦しみ、つまり十字架の欠けたところを満たすとはどういうことか?イエスのあの苦しみがまだ足りなかった、とでも?実は、このことを各自が自分なりに納得することが信者としての腕を上げるコツなんだが・・・。
で、パウロの真意は?
自信と誇りに満ちたパウロ。人を人とも思わないローマ市民としての冷徹な迫害者パウロ。そんなパウロがキリストと出会って回心した。回心のパウロは、過去の自分の所業を決して忘れることはなかった。イエスの十字架の前で、何度胸を打ったことか。そして、そんな不遜な自分に声をかけて下さった主の心に触れては何度涙したことか。それで終わっていたらパウロはただの回心者、信者の鑑(かがみ)で終わっていただろう。もちろんそれはそれで偉大なことだが…。パウロの偉大さは、胸を打ち、涙する度に、「一人でも多くの人にこの感動に満ちた出会いと新しい人生を伝えたい!」と決意を新たにしては、宣教の旅に勇躍していったことだった。
もうお分かりかと思うが、パウロは十字架にケチをつけているのではなく、そんな十字架の価値に気づかなかった、自分にはまだ福音が伝わっていなかった。福音の原点、つまりそれを抜きにしては福音が骨抜きになる十字架の価値は全ての人にまだ伝えられていない。イエスはそこまではなさらなかった。「全ての人に」というイエスの意志は継承されなければならない。パウロの強烈な使命感。そういう意味で、パウロは、「キリストの苦しみの欠けたところ」と言う。
で、パウロは、「身をもって満たしています」と言い切る。信者と自認するなら、パウロと同じセリフを口にするのは当然。で、信者の合い言葉は、「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たそう!」ということになろう。つまり、「どんなに腹立たしいことに直面しても、あるいは無視されても、認めて貰えなくても、はたまた誤解されたとしても、声高に勇ましく立ち上がる前に、冤罪(えんざい)にも無言で臨んだキリストの沈黙の声を先ず聞こう!」というなが~い合い言葉。
そうすれば、今日の福音に登場する、働き者のマルタのつぶやきに似たような言動はかなり緩和されるに違いない。そして、あなた自身はもちろん、教会が真に神の国のしるしとなって世に燦然と輝くに違いない。信仰を色あせた幻想に終わらせてはいけない。パウロのように宣教の旅に出なくても、せめて、毎日の生活の中で、そんな思いを強烈に持ちたい。
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