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正義の神が譲歩したワケ

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 21時50分

2004.7.25(年間第17主日)ミサ説教音声(mp3)

2004.7.25(年間第17主日)ミサ説教映像

今週の聖書

創世記18章20-32節

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

 主は言われた。「ソドマとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降っていき、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びの通りかどうか見て確かめよう。」
 その人たちは、ソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主のみ前にいた。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ばされるのですか。あの町に、正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ばし、その五十人の正しい者のために町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことをあなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたに過ぎない私ですが、あえて、我が主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかも知れません。あおれでもああなたは。五人足りないために町の全てを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかも知れません。」主は言われた。「その四十人のために私はそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならず、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるなら私はそれをしない。」アブラハムは言った。「敢えて、我が主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかも知れません。」主は言われた、「その二十人のために私は滅ばさない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人にしかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のために私は滅ぼさない。」

今週のポイントアブラハムと神様との長いやりとり。このエピソードをどう理解すればいいのか。神様は悪に報いるお方。旧約聖書を貫く神学と言っていい。続きを読むと、ソドムとゴモラは結果的に滅ぼされた。そこの住人ロトの家族だけはかろうじて難を逃れたことになっている。
 しかし、このエピソードは、「神様からの天罰を回避する手段は何もなかった。それほど、ソドムとゴモラの罪は大きかった」ということを言おうとしているのではないのではないか。むしろ、アブラハムの申し出に、次々と譲歩する神様のおおらかさに着目すると、このエピソードを残した人々が、人間的なイメージの神さまを描くのがいかに好きな人たちだったかが分かる。しかも、「神様ってどこまでもお人好しなんです」と、あの謹厳実直、善良そのもののアブラハムまでが、いたずらっぽくウインクする様まで浮かぶから楽しくなる。
 だから、このエピソードは、神様は悪にはきちんと報いる正義の神、という少し怖い感じの思想を和らげて、しかも、どこまでも慈悲深く、人間の常識を遙かに超えたおおらかなお方という新しい信仰の地平に招いていると言えよう。
 「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことをあなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
 毅然として、神様の前に立つアブラハムの説得は、従来の正義の神概念を見事に乗り越えていて嬉しくなる。つまり、悪には容赦ない報いをくださる神という従来の思想ではひとくくりに出来ない現実を神様に突きつけることで、新しい霊性への扉を開いたと言える。そして、神様が、アブラハムの説得に何一つ反論もなさらないのは、実は、ご自身でも、正義の神という一面だけを強調したような呼ばれ方には満足しておられないというメッセージではないのか。そんな神様の気持ちを察したかのように、アブラハムは饒舌?になる。
 いくらお人好しといえども、それをいいことに、やりたい放題、言いたい放題というのは、人間社会においてもいかがなものか。信仰の世界においても、神様の気持ちを踏みにじるようなことは赦されるべきではない。にもかかわらず、神様はお人好し。それは、人間というのは神様を無視したりして無節操なところもあるが、反面、自分を低く見積もり、自分はダメだと思いたがる。そんな人間だって、もとはと言えば、神の似姿。そこで、神様はアブラハムと長いやり取りをすることに。
 「正義の神という強面(こわもて)のする自己紹介は好ましくない。緊張や恐れではなく、安心して私の前に出て欲しい。このメッセージを先ず送りたい。」
 神様のお人好しは神様の愛の心遣いだった!

 考えてみると、あの時もこの時も、神様はボクに鉄槌を下さらなかった。したい放題、言いたい放題を赦されたと思う。お人好しの神様の気持ちがこの頃分かるようになって、正義の神が重たくなくなった感じ。


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