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空しさの諸相を斬る

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 21時53分

2004.8.1(年間第18主日)ミサ説教音声(mp3)

今週の聖書

コヘレトの言葉(伝道の書)1章2節、2章21-23節

 コヘレトは言う。
なんという空しさ 
何という空しさ、すべては空しい。
 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

今週のポイントコヘレトは、個人の名前と言うより、集会のリーダーのことだという。こんな人が、リーダーだったら、参加者は大変だろうなあ。
 あ、それはともかくとして、読み過ごすにしては、気になる「空しさ」の連発。厭世(えんせい)家?そうでないとしたら、人生を達観している?はたまた、面白みのない人?何というか、つまり、全て空しいと言いながら生き続けている嫌みな人?いずれにせよ思いは複雑。というよりも、自分なりに、「年をとるのはいいもんだ」と実感したり、司祭としての人生を選んだことにもそれなりに満足している者としては、水を差された感じで、この空しさの連発は少々きつい。ふと、かつての最優秀なクラスメートにどうもがいても太刀打ちできない自分が惨めで悔しくて…、そんな古傷?まで蘇ったりして…。
 ちなみに、本文は、12章まであるが、何と、「空しさ」が36回も繰り返されているという。最終章にも2回使われているので、一章平均3~4回ということになる。いやあ、ひどいもんだ!
 ところが、痩せても涸れても?聖書は聖書。さすが!もしあなたが、本書をひもとくなら、たちまち最終章まで読んでしまうに違いない。そして、コヘレトが単なる厭世家でなく、嫌みな物知りでもないことが分かるだろう。まさに快刀乱麻。含蓄に富んだ描写や言葉はまさに知恵!今日の本文に続く全ての空しさの諸相が完膚無きまでに打ちのめされたかと思うほどに暴き出され、白日の下にさらされ、そうして、唖然としている参加者に、伝家の宝刀が突きつけられる。

 全てに耳を傾けて得た結論。「神を恐れ、その戒めを守れ」これこそ人間の全て。 
 
 こうして、12章が、劇的に幕を下ろす。さすが、神の民の集会のリーダーだけあって幕引きはみごと。いや、確かに舌鋒鋭く切り込まれて、ウ~ム!とうなることしかできないとしても、読了後の感想は、サワヤカの一語に尽きる。何というか、妥協を許さないストレートな切り口というか、そういう一直線の、力に満ちた言葉のシャワーを浴びたと言ったらいいかも知れない。本当は、おそらくみんな、どこかで気にしているのに、妥協しながら生きている現実。どこか後ろめたさのするボクの現実。そんな現実を優しく包んでくれる心遣いもニクイ。ま、ともかく、この暑さに気力も萎えそうな時、必読の覚醒剤。

 ところで、空しさの諸相は、二千数百年前も今も変わらないことを知ると、改めて溜息が出る。それだけに説得力抜群。研修会にどんな講師を呼ぼうかと考えているなら、コヘレトを推薦したい。冗談はともかく、コヘレトが見据えていた不変不朽の真理が地に落ちた文化に大人も子供たちも傷つき、どこに向かって行けばいいか不安になっている今日の諸相。教会というか、私たち信者は空しさの諸相にチャレンジするコヘレトの集団としてますますその存在価値を増している。周りがいかに神抜き、信仰抜きの「空しさ」を謳歌しようとも、巻き込まれることなく曇りのない信仰の目をもってもう一人のコヘレトの道を手を取り合って行こう。みんなに声をかけたくなった。

 暑さの中で何とかコヘレトに出会えた土曜の昼下がり。


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