サインが読めたら怖くない?
ルカによる福音12章35節-40節
腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたく時、直ぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきた時、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。このことをわきまえなさい。家の主人は、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
夏の全国高校野球が始まり、甲子園では球児たちの熱闘が始まった。高校野球の魅力はなんと言ってもあのくりくり頭とさわやかさ。それに、一振りごとにベンチの監督に顔を向ける姿は印象的。たんに監督の指示を仰いでいると言うよりも、「いつも監督につながっていることで力一杯戦えます」と言っているようで微笑ましい。監督との信頼関係の上で発揮される自分なりの状況判断。高校野球の極意?プロ野球にしても同じかも知れないが…。
あ、また話がそれてしまった。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という冒頭の言葉が、「緊張感」「臨戦態勢」「油断大敵」「高校野球」と飛躍したワケ。もっとも本文の場合、戦いではないのだが、どんな状況にも対応できる態勢にしておく、ということでは共通している。
言い訳はこれぐらいにして、話しはまた飛躍するが、ふと思った。主人に給仕して貰うしもべはどんな気持ちなんだろう。
いやあ、それはもう緊張しましたよ。だって、あのご主人様がですよ、自分みたいな身分の者に給仕だなんて、考えただけでも恐れ多くて…。それがですよ、ホ、ホントにあったんですから。もう息が止まるほどビックリしましたよ。一生忘れませんよ。あ、あ、もったいない、もったいない…。
これほどショッキングな待遇を受けたことがないのでうまく表現できないが、いわば、こんな風な驚きと、落ち着きのなさと、そしてみんなに自慢したいような誇らしい気持ちがない交ぜになるのではないかと思われるのだが…。
ま、これは、本文を読んだ気ままな感想というか想像に過ぎない。しかし、主人を神さまに見立てて、これまでの自分の歩みをつぶさに眺めて見ると…。
なんと、しばしば給仕して貰ったことか!と知って驚く。特に志布志にきてからのご主人の給仕っぷりはすごかった。更に驚くのは、そんなにもしばしばご主人に給仕して貰ったというのに、無口なご主人の気持ちというか、言葉でうまく伝えるのが苦手なご主人の意を汲むというか、とにかくその言葉にならないメッセージ、そう、サイン。何十年にもなるというのに、そのサインを読むのがいかに下手なままかに驚く。実は、そのことなんだが、たんに下手というのか覚えようとする気がないのかよく分からない。とにかく、給仕して貰った!と感激した割には、一生忘れないどころか、直ぐに忘れてしまうのがボクの悪いクセ。驚くのは、そんなボクが、ご主人から小言らしい小言を聞いたことがないということ。これにはホント感心する。
しかし、考えてみると、ご主人が給仕てくれたのは、ボクが「腰の帯を締め」、いつでもどうぞと用意が出来ていた時ではなくて、「一体これはナンナンダ!」とパニックになってもがいていた時の方が多いように思う。あ、そうそう。これはナンナンダ!これが実は、サインを読もうともがいていたということではないのか。
あんな辛い思いは二度としたくないとと思いながらも、かといって、いつも「臨戦態勢」かというとそうでもなく、まして、「人の子は思いがけない時に来る」と脅かされてもうろたえないのは何故?ボクのご主人は、給仕が好きなんです。
そのうちひどい目に遭うかもね。
その時は、サインを解読してやる。