主が阻止されなかった
2004.9.5(年間第23主日)ミサ説教音声
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ミサ説教映像
知恵の書9,13-18
神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。
死すべき人間の考えは浅はかで、私たちの思いは不確かです。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が悩む心を圧迫します。
地上のことでさえかろうじて推し量り、手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことを誰が探り出せましょう。
あなたが知恵をお与えにならなかったなら、誰が御旨を知ることが出来たでしょうか。
こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、
知恵によって救われるのです。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
「主が阻止されなかったので罪を犯しました。」オプス・デイ創立者聖エスクリバー師の言葉。これまで、決して口にしたことのない表現だったので思わず読み返したほどだった。主が止めてくださらなかったから罪を犯した。だから、罪を犯したのは自分の責任ではないと言っているのではない。神学校時代に学んだことを思い出しながら翻訳すると、「罪を犯すことを神は赦された。神が赦されたからには、何か意味があるに違いない」ということになろうか。自分の罪深さを思い知るにつけ、溜息をつきながら、「イエスさまごめんなさい」とうなだれていたものだが、自分の心の迷走も「主が阻止されなかった」のだとすれば、全く違うものに見えてくるから面白い。何というか、主の立ち会いの下で立派に?罪を犯すというか、迷走する自分を主が黙認しておられるというか。とにかく、「今は仕方がない」と自分のずっと先を見て貰っている感じなのだ。そう、まさに「赦されている」感じなのだ。
「朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が悩む心を圧迫します。」
もしかして、知恵の書を記した人々は、ボクと同じように、迷走しがちな自分をもてあまし、溜息をつきながらうなだれた経験があるのかも知れない。いや、自分と同レベルに置くのは不遜。人間として、同じ体験をしたとしても、その先が違う。「人はあなたの望まれることを学ぶようにな」るはずなんだがそれが難しい。だが、聖エスクリバー師の言葉によると、なかなか学習効果を上げられないでいること自体も嘆かなくてよさそう。そんな自分に、いつも主が立ち会ってくださるのだから・・・。いや、彼の言葉というか、霊性を平面的にしてはいけない。
話しを元に戻さないといけない。「主が阻止されなかった」という言い方に心惹かれたのは、深遠な神の思いの深みに分け入る有力な手がかりをこの言葉に感じたからなのだった。「神の計画を知りうる者がいるでしょうか」という知恵の書を引用するまでもなく、神の計画の不思議さは今更強調する必要がないほど明白なのだが、これまでは、その不思議さに戸惑い、落ち込み、やがて、受容するという辛い過程を常道と認識していた。「主が阻止されなかった。」「言われてみればそうだよなあ。」頭で思い巡らしていた主が、等身大で目の前に立たれた感じ。呻吟しがちな霊性から快活な霊性への転換の予感。
それは、ちょうど、自己流のテニスを何十年もやっていて、ここ志布志で初めてコーチに恵まれ、目から鱗の適切なアドバイスを受けた、そんな感じ。無駄なくスマートに。もしかしたら、霊性の道でも言えそう。そんなワクワクした感じ。
「主が阻止されなかった。」早く使ってみたい?オット、「主よ、その前に合図を下さい。」