一事が万事でも
2004.9.19(年間第25主日)ミサ説教音声
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ルカによる福音16,10-13
ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。だkら、不正にまみれた富について忠実でなければ、誰があなた方に本当の価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがあなた方のものを与えてくれるだろうか。どんな召使いも、二人の主人に仕えることは出来ない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるかどちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることは出来ない。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
二人の主人に仕えることは出来ない。
ところがどっこい。どっちにもいい顔をしてうまく生きているのが信者という人間ではないのか。神をかけがえのないお方と崇めながら、自分自身を崇め、自分の知識や経験を生きる手だてにしているのではないのか。小さなこと、大きなこと、神と富。そんな対比を敢えてするまでもなく、信者といえども、人間どっちつかずの曖昧さを引きずらない人はいない。右か左か、明確にしないと気が済まない人は、自分はそれでいいかも知れないが、周りが大変。熱心さの質が問われていることも確か。
と、いつものように、そんな反論のようなグチのようなことをいってみないと気が済まない。気が済まないからと言って、それだけで終わっては、つまり、人間だから、ですましたら身も蓋もないのだが。
で、何とか、イエスの真意を知りたいと思い巡らしていたら、去る6月の出来事が思い浮かんだ。高松でのME(エム・イー:夫婦の関わりを深める運動:「大人たちへ」の部屋参照)を終え、一宿一飯、メンバーの家庭で楽しいひとときを過ごしての帰途。車中での話題はもっぱらMEの問題。そして、フェリーを待つ間に捧げたミサの福音。「あなたは兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7,2)一同、思わず、アッと叫びそうになり、やがて、顔を見合わせて苦笑。イエス不在の正義の味方気取りの会話に、イエスが割って入った。まさにその通りだった。イエスさまに謝りながら、お互いの気持ちは完全にマナーモード。問題を問題にするアンタらが問題!そんな叱責を全身で感じながら、「参った、参った!」問題が問題ではなかった!そうなのだ。いや、しばしばそうではなかったのか。今度は、古傷?が蘇った。
「さもありなん。やっぱり!彼ならやりそうなことだワイ。一事が万事」などなど。
一通り我が身に受けたしょっぱい評価の数々。それでも、大きくひねくれることもなく、道を誤る?こともなく、今こうしていられるのは、なんと言っても、イエスの友情のお陰。周りを失望させても、見捨てることなく道を示し続けてくれたイエスの友情には言葉がない。
そんな個人的文脈に立って、本文を再読すると、無理難題を押しつける分からず屋のイエスではなく、何とか道を示そうとして言葉を尽くしているイエスの誠実さが伝わってくる。それは、弱くてどっちつかずの人間の性(さが)を受け入れながらも、いわばコツをはずした信仰の軌道修正に力を貸そうとする友としての助言。つまり、イエス不在の理屈や議論がいかに不毛なことかを何とか気づかせたいのだ。それが、ボクのためになることだからだ。
そんな風な理解までたどり着くなら、話は早い。「問題なのは問題だらけの現実でもなければ、問題そのものでさえもない。問題の前に立つ自分自身のありようが問題。そうなんだよな。」
で、己を無とされた主との誠実な友情。首尾一貫した素朴な信仰の姿への招きこそ本文の真意に思えてならない。
この一週間も主との友情を貫けますように。