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信者の底力

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 22時15分

2004.10.24(年間第30主日)ミサ説教音声
音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。

今週の聖書

シラ書35,15b-17,20-22a

 主は裁く方であり、 人を偏り見られることはないからだ。
貧しいからといって主はえこひいきされないが、
虐げられている者の祈りを聞き入れられる。
主はみなしごの願いを無視されず、
やもめの訴える苦情を顧みられる。
御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、 その祈りは雲にまで届く。
謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、
それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。
彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、
正しい人々のために裁きをなし、 正義を行われるときまで。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

今週のポイント立て続けに来襲した台風。丹精込めて育てた農作物が壊滅的被害を受けた農家の人たちの苦悩は計り知れない。しかも、今回の地震。人々は天の非情を恨んでいることだろう。

 今日の三つの朗読に共通しているのは、「それでも、あるいはにもかかわらず」という逆境の中でもめげない信者のありよう。パウロは、ローマで取調べを受けたとき、「誰も助けてくれず、皆わたしを見捨て」(2テモテ4,16)たにもかかわらず、「主はわたしの側にいて力づけてくださいました」((17節)と感じることが出来た。福音書では、「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」(ルカ18,13)と祈る徴税人に心を留められたとイエスが証言している。少し残念な感じがするのは、あの徴税人が、イエスの証言を聞くこともなく神殿を後にしたらしいということ。いずれにしても、私たちには、イエスの証言を聞くことで十分。

 台風被害にあった人々や突然の地震で家族や家を失い傷ついた人々とのように、天災の中で立ち往生する場合も含め、私たちは、社会的にも、個人的にもいつもチャレンジを受けるものであることを思い知らされる。
 孤独な感じ、周りの人々から理解されていない感じ、ある人を受け入れるのが難しい、同意しがたいことを受け入れなければならない、などなど。毎日の生活のなかで遭遇するさまざまな状況の中で、私たちはどんなチャレンジを感じるのか。

 誠実に関わろうとすればするほど疲れてしまう。まったく無視してわが道を行くのもかなり強い信念がいるようで少し怖い。で、当たらず触らず。つかず離れず。ついにそんな結論に達して、何とか周りとうまくやれるようになった、ということもあるかもしれない。確かに賢明な生き方を選んだと思う。

 しかし、それは信者らしい結論とは言いがたい。僕が言うのではない。シラ書の本文に戻ってみよう。
 「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行」(21節)行くという時の「雲」はまさに視界をさえぎる障害物であり、同時に、聖書では神様が現れるときの描写法の一つ。行く手に立ちはだかる暗雲。まさに、私を不自由にし、私らしさを拒み、私らしく生きる力をくじく難局の象徴。しかし、そこで発揮されるのが信者の底力。

 暗雲に直面し、あるいは暗雲に飲み込まれたとしても、一息入れて、さて、これは一体なんだと眺めるだけのゆとりこそ信者の底力。そして、右へ左へと暗雲に翻弄されながらも、「私にどうしろと仰るのか・・・」神の真意を探り続けるしたたかさ。これこそ究極の底力。それこそ、「雲を突き抜けていく」信者の祈りそのもの。そんな、つらい祈りの中で、見出した、かすかな光やひらめき、そして何よりも心の落ち着き。祈りが主に届いたしるし。まさに、「いと高き方が彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし」(22節)たのだ。正しい人々?神に心を向けて祈る人々のこと。裁き?黒雲が依然残っても自分の身の振り方が見えたということ。ちなみに、「裁」は形のない布にハサミを入れて形をつけるという意味。
 
 で、ことの大小を問わず、すぐにあきらめたり、人の批判をしたり、自分の不遇?不幸を人のせいにしたりするのではなくて、しっかりと信仰の大地に足を踏ん張り、難局をチャンスと見て、信仰の底力を発揮できる日々の生活でありますように。 


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