証の機会は誰に?
2004.11.14(年間第33主日)ミサ説教音声
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ルカによる福音21,5-19
ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
今日の本文を読んで、ある人は、テロによるアメリカでのビルの崩壊9.11を思い起こすかもしれない。戦争と聞けば、間違いなく、イラクを、地震と聞けば新潟中越地震を思い起こすに違いない。また、「恐ろしい現象」のくだりは、近年の異常気象を思い起こさせて、イエスの予告に現実味を感じるかもしれない。
こうした自分なりの感想を持つことに多少の意味はあるかもしれない。しかし、聖書がそれだけの価値を持つだけならただの本。聖書は、イエスからの一人一人への愛の呼びかけ。返事をしなければならない。先ほどの感想では返事にならない。愛には愛をもって答えて初めてイエスの信者らしい返事をしたことになることを忘れてはならない。たとえ、あなたが、未来の信者(未信者)だとしても、せめて、イエスの気持ちを理解し、受け止めようと努力して欲しい。
と言われても、何やら意味ありげな描写にあふれていて、理解しなさいと言われても・・・。ましてや返事をしたためるなど、どこから手をつけていいものやら。
もし、そんなことを考えているなら心配無用。聖書つまりイエス様の言葉が全部分からなくてもいい。第一、政治家たちのやり取りを見ても分かるように、直接話しても理解し合えないことは珍しいことではないことを思えば、二千年前の話が分からなくて当たり前。イエス様ご自身、知りたいのは私たちの「気持ち」。その気持ちを伝える手がかりとなるのがキーワード。本文がいかに難解でも、手がかりとなる言葉の一つや二つは必ず見つかる。
ということで、本文に戻ってみると・・・。
「証しをする機会」がその一つ。周りの状況がいかに悲観的であったとしても、その時こそ、あなたがあなたらしさを失うことなく、イエスの友としての生き方をまっとうできる絶好のチャンス。(下記の理由でここで中断して小学校へ。話のネタが用意されていたとは!)
つい先ほど、と、ある小学校のバザーのアトラクションで、幼稚園の子供たちが見事なマーチングバンドの演奏を披露して喝采を浴びた直後のインタビュー。子供たちの自己紹介が進み、やがて、「教えた先生は怖いですか?」「怖い。」子供の無邪気さには救われるとしても、司会者の誘導尋問のような無神経な質問に、ガクッ!担任はともかく、誰よりも、外部から指導に来られた先生はどれほどガクッ!だったことか。
僕の心の動きをもう少し追うと・・・。せっかく完成度の高い演奏を喜んでいるのに水をさされた感じ。「カトリック幼稚園の先生は怖いんだって!」「あの幼稚園には怖い先生が多いんだって!」話がそんな風に広がったりしないか、不安な感じ。まったく下手な質問をしてくれたもんだ。矛先は司会者に。あんなまずい司会はしないで欲しい。誰かを通して伝えてやりたい。強い不快感。ま、しかし、練習は何だってつらいから、厳しい言葉の一つや二つ飛び出すことだってあるだろうよ。そんな善意の人に期待もしている。こうして、一通り心の迷走を赦した後で辿り着いたのは・・・「クラスの先生は優しいですか?と聞かれたら、間違いなく、やさしい、と答えるに決まっている。先生を怖いなんて思っている子なんかいるわけがない。だから、心配しなくていい。」特に若い担任を慰めたい感じ。
それはそうと、ただでさえぶっきらぼうな上に直ぐにムッとなる自分、厳しさも必要と思っている自分。もしかしたら、意に沿わないことに出くわすと、つい怖い顔になっているかもしれない。心しなければ・・・。
あれ、なんだ、結局は自分だったのか。思いがけない結論に苦笑しながらふと気がついた。司会者を責めている否定的な感情がまったく消えていることに。
それにしても、もし、あの心の迷走(不安が不安を生み、怒りが怒りを生み、誰かを責め立てる根拠のない連鎖)を人にぶっつけていたら、「そうだ、そうだ、あの司会者が問題」とますます威勢のいい論議に花が咲いたに違いない。お昼前ということもあって、先生たちもそそくさと帰ったので一言二言話しただけで大事に至らなくて?よかった。すんでのことで、「証しをする機会」を逃すところだった。そうか。何となく分かってきたぞ。「証しをする機会」とは、まず、自分自身にイエスとの友情の証を立てること。人事じゃない!
イエス様、返事になっています?