平和への新しい戦い
2004.11.28(待降節第一主日)ミサ説教音声
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イザヤ2,1-5
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい多くの民が来て言う。 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。 わたしたちはその道を歩もう」と。 主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。」争いを止め、国民が黙々と本来の農業に従事するようになる。平和の到来を描写するリアルな表現。好きな箇所の一つ。
「もはや戦うことを学ばない。」やっと到来した平和に歓喜しながら、今後は「主の光の中を歩もう」と、民を上げて不戦の誓いをする。
しかし、そんな平和への崇高な思いが踏みにじられたのが人類の歴史。では一体、イザヤが見た幻とはなんだったのか。所詮幻に過ぎなかったのか?
しかし、聖書は謎解きのための本ではないことを思うと、イザヤが見た幻こそ、実は、私という生身の人間の深い願望そのもののような気がしてならない。壮大な人類の歴史から、急転直下、我が歴史に目を転ずれば、聖書は力に満ちた言葉となって、ボクのミクロの歴史に語りかけてくる。
天真爛漫、山野を駆けめぐって育った至福の原始少年時代。村の仲間との辛い対立の中学時代。まさに身に武器?を帯びての登下校。お互いに気まずさを引きずっての高校時代。勉強に身が入らないままずるずると過ごした三浪後の神学校。自分の人生を自分で選んだとの強い自負の念に満ちて過ごしたラテン語の二年。やがて、理屈という武器に酔った哲学時代。開かれた教会へと方向転換した教会に心がついていかない学校当局への苛立ちと不平不満の数々。それでも晴れて司祭叙階を許されて過ごしたふるさと奄美での楽しい二年。あとは語るのも辛い傍若無人、荒削りの40代。そんな全ての過去を引きずりながら、それでも、闘志むき出しのギラギラの情熱の沈静化を感じる今に至るまで、口にし続ける主の平和。
甘い、甘いとばかりに、それでナンボノモンヤと挑み続ける周りの現実。これでどうやと、戦いを煽るかのように飛び交う情報。平和に過ぎる毎日にもかかわらず、サインが読めないばかりに、まとわりつく疑心暗鬼。ここはひとつ、あわてず、騒がず、沈着冷静。事を構えるのを控え、流れに身を任すしかない。真っ向勝負を回避した妥協めいた弱気の戦術?
そんなボクの歴史と現実の中で、本当は実現したかったこと、そして実現したいと望み続けていること、それこそが、平和だったと今言える。周りとの平和、何よりも今は自分自身の中の平和。平和が保証される環境にない時でも、人のせいにするのでもなく、自分のふがいなさを嘆くのでもなく、それで・・・?と言い返せるだけの泰然自若。主の平和のイメージ。
今日から待降節。平和への新しい戦いの始まり。