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あなたは待降節信者?アドベント信者?

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 22時28分

2004.12.5(待降節第二主日)ミサ説教音声
音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。

今週の聖書

イザヤ11,1-10

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。 目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。 その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

今週のポイント待降節は文字通り、主の降誕を待つ季節ということで、待つのは私。英語はAdventアドベント。待つという意味合いはない。むしろ、ad-(・・・へ)という接頭語からも分かるように動きを感じる言葉。ventは来るの意味だと知れば、「主が私の方に来られる季節」となって、「待降節」とは響きが少し違う。
 主が私のほうに来てくださる、と聞いて二つの反応がある。①部屋を片づけてお茶でも用意しないと。②えーいつ来てくださるの!①が待降節で、社交的・常識的でマルタ的信者?②がアドベントで、開放的でマリア的信者?
 誰かを迎える場合の日本人のイメージは、「緊張。みっともないところを見られては困る。ちゃんとしなければ。果たして、喜んで貰えるかも不安。」②の人は、とにかく嬉しい。来てくださったらどんなことしようかな。楽しみだな。
 そんな分析が妥当かどうかはともかく、待降節といえば、四旬節に準じた重苦しさがある。何とも感じない人もいるとは思うが・・・。前任地では、確か、四旬節同様、黙想会や共同回心式があったと思う。つまり、待降節は、四旬節と同じように節制と回心に励んで主を迎えるふさわしい準備の季節という意味合いが強かったと思う。それはそれで麗しいのだが、ことさら気を遣うこともなく「手ぶらで」主を迎えるマリアのようであってもいいとは思う。
 言葉の遊びが長くなったが、今日の聖書はイザヤ。とくに次の数節は好きな箇所の一つ。
 「 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。」

 イスラエルが北イスラエルと南のユダ王国に分裂してから丁度二百年後のBC722年。北イスラエルはアッシリアに滅ぼされた。北の脅威に南のユダも揺れた。揺れたのは、単に動揺したということではない。ユダの王は、ダビデ王の末裔。しかも、預言者ナタンを通して告げられた「あなたの王座はとこしえに固く据えられる」(2サムエル7)とヤーウェが保証した栄えある家系。

 アッシリアの脅威は、そんな約束、つまりヤーウェの契約への不信感を増幅させたのだった。ある人々は、アッシリアと平和同盟を結んだ方がいいと主張し、ある人々は、「神が保証したのだから、どんな罪を犯しても王国は不動ということだ。座して死を待つべきではない。武力には武力で立ち向かうべきだ」と言って譲らなかった。分かるような気がする!

 「ちがうちがう!みんな違う!万軍の主をのみ聖とせよ。北イスラエルを見よ。二の舞を踏んではいけない。アッシリアなんか畏れてどうするんだ!」ま、そんな風なことを、イザヤは孤軍奮闘、声をからして訴え、契約の民としてヤーウェの平和をこそ希求すべきだと説いたのが、上記の、「狼は小羊と共に宿り・・・」。

 預言者の透徹した魂は、どんな難局にあっても、神の約束の真実不動を疑わない。主の平和は、まさに相(あい)食(は)み合い、敵対するはずの両者が共存するという驚異の平和。そんな平和を絵空事とするか、それともイザヤの側に立つのか。
 「えーこんなひどい状態なのにー!」
 イザヤの声をかき消す現実は、今も周りに絶えないとしても、答えは一つしかないのだが・・・。

 ところで、主が来られるAdvent。たとえ、自分の現実が、イザヤの預言の対極にあるとしても、どんなに片づかない乱雑な部屋のようであろうと、先ずは「ようこそ」と手ぶらでお迎えしたい。お迎えしたら、どうしたら主と共存できるか、つまり、主と共にどんな時でも希望の中で生きていけるかということが、きっと分かるようになると思う。これは大事なことで、迎える前に、大掃除をしても必ずしも、共存に至るとは限らないから気をつけたい。
 え?手ぶらでお迎えする?
 あ、それは、簡単なこと。要するに、毎日、大小23もの逆境にあっても、「希望と喜び」を失わないこと。
 えーそれって手ぶら?難しそうー。
 
 そう言うあなたも契約の民新しいイスラエル。  


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