忍の一字は信者の証
2004.12.5(待降節第三主日)ミサ説教音声
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ヤコブ5,7-10
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。
あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。
兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。
兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
「主が来られるときまで忍耐しなさい。」
二千年前のことを思ってもこの言葉は意味を成さない。現に私たちは信者となり、ミサにあずかり、聖体拝領しているにもかかわらず、つまり主が来てくださるにもかかわらず忍耐を強いられることは多い。
ヤコブは、主の再臨(マタイ24,23以下)のことを言っていると言われるが、それにしてもいつのことになるやら、わたしたちにとって現実味はない。
この聖書が今日のわたしたちにも意味があるとすれば、ヤコブの道徳的な勧めを心がけるということに尽きるとは思う。しかし、それにしても、ヤコブの勧めでなくても、信者であれば誰もが心がけるべき事柄に過ぎない。
問題は、わたし達が、「主がこられるまで」というコダワリすらもたないのではないかということではないのか。では、主が来られるとどんなことになるのか。今日の福音には、神の国の具体的なしるしが紹介されている。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11,5)
わたしたちにとっては、これまた、非現実的なことばかりだが、たとえば「さまざまな事にコダワリ、自分の中に閉じこもり、希望をなくした暗い孤独な人生から開放されて、周りの人々に心を開き、軽やかな気持ちで前進できるようになった」としたら、それは、イエスの到来によってもたらされたさまざまな癒しと同じほどの価値があると言える。
それほど深刻でないとしても、たとえば、「これは自分のことだとはじめて気がついた。初めて相手の気持ちが分かった。素直に謝ることが出来た。などなど。」これらは、いわば、自分が良く見えたので、自分の偏見や思い込み過剰の自尊心などのコダワリから開放されたということであって、癒しがもたらされたと言っていいと思う。あるいは、「私は本当はこんなことがしたい。本当はこんな気持ち、本当はこうして欲しい。などなど。」恥ずかしくてなかなか言えなかったことを、素直に表明できたとしたら、これもコダワリから開放されたということで、一種の癒しの結果と言える。
いずれの場合も、「主が来られたしるし」と評価していい。
このように、病人の癒しなどといった劇的な事柄でなくても、日常、わが身に起こる具体的な事柄をつぶさに眺めると、「偏見、思い込み、自尊心、恐れ、などなど」自分を不自由にしていることは多い。そういうコダワリの実態を自分で確かめたり気づいたりすることは容易ではないが、一旦、自分が良く見えると、どうすればいいかの見通しも立つ。だから、もう少し見えるようになるまで待つ必要があるし、忍耐が必要。そういう意味で、自分自身への忍耐と周りの人や状況に対する忍耐が求められていると言える。
「裁く方が戸口に立っておられます。」
ここでも裁きは、漢字の意味が、裁縫の裁、つまり形をつける、はっきりさせるということだとすれば、再臨の裁きではなく、日常のことと理解できる。つまり、主が来て下さると、かすんだ目が次第に見えるようになって、自分がもっとはっきりしてくる。そんな主が毎日戸口に!それが救い。
アドベントははや第三週目!でも、主は毎日戸口に!