メッセージの本質はどこに?
2004.12.19(待降節第四主日)ミサ説教音声
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マタイ1,18-24
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た)。
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)
受胎告知、と言えばエルグレコ?幼稚園の降誕劇も大天使ガブリエルのお告げの場面から始まる。家庭で、商店街でクリスマスの飾りを施す殆どの人々にとって、受胎告知などどうでもいい話に違いない。それはそれで健全?むしろ、受胎告知を受けたマリアを乙女ではなくて処女マリアと呼ぶほうが正しいと主張するカトリック信者がいたら、せっかくのクリスマスのメッセージを無用の議論で台無しにしてしまいそうな感じがする。
実は、本文の「見よ、おとめが身ごもって・・・」は今日の第一朗読イザヤからの引用文ということになっているが、イザヤの場合、「おとめ」と訳されている言葉は、未婚に限らず既婚の女性をも意味するのだという。で、その線上で考えると、マタイの場合、処女を意味する言葉が使われているからといって、ことさらに、処女マリアに固執する必要はないと言える。そんな説明を聞くと、無用な議論に巻き込まれずに済んだと言うか、向かうべき方角をしっかり示されたような安心感がある。そして、「神は我々と共におられる」、つまりインマヌエル、という聖書本来のメッセージに専念できそうで嬉しくなる。さらに、マタイが、イザヤ本文の「インマヌエルと呼ぶ」(7,14)という言い方を、「インマヌエルと呼ばれる」と言い換えていることに気づかせてもらうと、誰であれ、たとえ流行としてクリスマスの飾りをしたり、ディナーショーをしたりする人からも等しく、「『私たちの救い主』と呼ばれたい御方がこられる」というマタイの意向も伺えて感慨深い。
志布志には、幼稚園から程近いところに、鉄道公園と呼ばれる小さな公園がある。子供たちには人気のスポット。数年前から、12月になると10万個もの電飾で飾られ、空を翔るトナカイも現れて美しい。かなりの費用を投じての町のクリスマス企画?にどんな意図があるかはともかく、町の人々に、クリスマスが近いことを告げ知らせる風物詩?として定着しつつある。もっとも、多くの人々には、「ああ、クリスマスか。もう年末。早いもんだ」との感想で終わるかもしれないが・・・。
「それに比べて教会は見劣りするなー」と引け目を感じているボクに、マタイの慰めの言葉が届いた。「ま、いいではないか。教会が出来ないことをやってくれているのだから。ナッ!」
そう言えば、一人の卒園児の母親から、「子供たちに教会でのクリスマスを体験させたい」との申し出があり、近くの小学校六年生の子供たち31名と数名の母親と幼児と共にお御堂でのクリスマス会が開かれることになった。
マタイが言った。「ほら、ネッ!」
福音のおおらかさ。これこそが福音だったのだとの新たな気づき。「だれもが、『私たちの救い主』と呼ぶ資格があるんだからね!」マタイが念を押した。明日、子供たちとどんなクリスマス会をしようかな。