コロナ禍の中で迎えた49回目の司祭叙階記念日

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静かに祝った今朝のミサ

参加者は何時もの7人。他にも今日の日を迎えた司祭が鹿児島教区にいるのは確かだが、思い出せない。その旨ミサ前に話したので、ミサ後みんなで「司祭のための祈り」を唱えてくれた。信者の気持ちが嬉しい。司祭として幸せを感じるときだ。叙階式で父が詠んだ11首のうち最後の一首を紹介したい。

身は独りになり果つるとも踏み越えて ひるむこと勿れパウロの如く

ロマンチストの父の熱さは、若い頃は煙たくもあったが、年齢が近づいた今はただ懐かしい。日曜日ごとに最前列に座って腕組みをしながらボクの説教に耳を傾けたものだ。時々、首をかしげたりするものだからボクとしてはマイッタ。しばらしくして、その旨伝えたらやっと分かってくれて解放されたのだが。

昨日届いたカトリック新聞の訃報欄で叙階直後に出会った司祭の顔写真に絶句。何度合っても同じ顔立ちの老けない司祭だった。若いときの写真を使うのが習わしとはいえ、やはり当時と同じ顔。右も左も分からない駆け出しの頃の様々な思い出が赤面と共に蘇った。

腹の周りが白ぽいのでシロハラ。キョキョッと鳴く。

腹の周りが白ぽいのでシロハラ。キョキョッと鳴く。

昨日の野鳥たちを見てください。最後のイソヒヨは鳴き声を聞いてもらおうと思ったが少し弱い。でも良く聞くと、どこかで聞いたことのある声だと思う。今時、どこにでも現われる野鳥だから。

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