和光園ミサで復活祭のすべて終了!
司祭休日のさる月曜日。一週間ぶりの一人屋台。仕入れてきたばかりの新潟の銘酒で乾杯!”ヤレヤレ、さすがにくたびれたー”クツロギモードに入ったその時無常の「ピンポーン!」あたふたと玄関の扉を開けると、「教皇が亡くなられたそうでお話を…」「エッそうだったんですか?!」民間の新聞社に教えられた。30分ほどの立ち話。

和光園奥の公園の池 沢山のコイが気持ちよさそうに遊泳中
フランシスコ教皇で教会が目覚めた
教皇と言えば、ボクにとっての取って置きの名言は「教会は野戦病院みたいなもの。」野戦病院は見たことはないが、戦場の様子から想像はつく。面倒な手続き一切不要。思わず叫んだものだ。「そう来なくちゃ!」公教要理での洗礼準備には以前から違和感があったのだ。
「やっぱり基礎が分からないと」の声は今も根強い。そもそも、要理という言葉がよくない。理屈のまとめ。信仰は理屈じゃないと分かっているのに!理屈(教義)を教え込んだ。”野戦病院”はこれまでの教会の常識を覆す決定打、となるはずだが…。
罪の箇条を過剰に学んだ
黒表紙の祈祷書には天主の十戒をもとに、罪の箇条が何頁にもわたって記されていた。「罪て沢山あるよなー。」子ども心にもそう思ったものだ。もはや見なくなたったが、それは教会の進化(深化)のしるし。そうなのだ、時間はかかるが教会は間違いなく進化してはいる。

子どもの洗礼と一緒に結婚の祝福
「神様の前でふさわしい者になりたい」という善意の素朴な忖度からの解放。教会の出エジプトが待たれる。怖いお父さんから放蕩息子の帰りを祈りながら待つ愛すべきお父さんとの再会こそみんなの願い。
イエス様の神様はお父さん
全知全能の神という神学が作り上げた神のイメージ。あれほど分かりやすい話をされたイエス様を無視して暴走した教義神学者たち。長い間、頭の強化こそ信仰の深化になると勘違いした教会に警鐘を鳴らし続けた教皇のテキは足元にいると揶揄された教皇の気持ちを思う。
ともあれ、葬儀が終わったら文字通りの根競べが始まる。フランシスコ教皇の路線が強固に守られるのを祈るばかりだ。

聖書の庭の片隅で堂々と咲くアマリリス
コメント