突然ですが…
「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は言われた。光あれ。こうして光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分けた。光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。これが第一の日である。」一番好きな聖書の本文がここ創世記1章1-5だ。バビロンに流された(バビロン捕囚BC587 -539年)祭司たちが書いたもの。
クラスの中で
昨日のYOUCAT勉強会は約2時間。#80「マリアはなぜ処女なの?」の答え、「神は、…ご自分の力によってのみ可能な新たな始まりに着手されたかった」のと、お告げの場面でマリアの疑問に答えた天使の言葉「聖霊があなたに降る」(ルカ1.35)。新たな始まりと聖霊、と聞けば第二の創造ということになるわけで、創造と聞けば、ボクとしては冒頭の話に戻ることになり、前にも何度か話したことがあるので、中高生にもすっかりおなじみになったようで、頷いていた。「エーまた?分かった分かった」だったのかもしれないが。
流され人たちの創世記
話を戻そう。混沌と闇と光。つかみどころなく見通しの立たない不安はまさに混沌であり闇。思わず「光あれ!」と叫びたくなったに違いない。エルサレムを追われた人々の心の叫びは神ご自身の叫び。こうして光があった。ああ、よかった!なんとか先が見えてきた安堵感。神様も同じ。神は光を見て良しとされた。お先真っ暗だった人々の長い道のりにメドが立ち、ようやく日が暮れて夕べとなり、ホッと一息つくことができた。そして、朝を迎えることができた。これが新しい明日に向かっての「第一の日である。」まるで宣言のように短く力強い。「さあ、皆さん、新しい創造の業が始まりました!今日がその第一日目なのです!」
中高生たちの始まり
「おかしくなった友達関係でもちょっとしたことで好転したという体験はあると思う。光が射したからです。」何人かが頷いた。「神様の霊が何とかしようと水の上を動いていたんです。」「新しい創造なんです」とたたみかけて一連の説明を終え、持ち寄りおやつタイム。もっとも、自分の小さな創造の体験など、異国をさまようシリア難民の人々や体育館でのカーテンひとつで仕切られただけの避難生活を強いられている人々からは「それでナンボノモンヤ!」と言われそうだが。
聖書の地を追われた人々の歌
「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思ってわたしたちは泣いた。…わたしたちを捕囚にした民が歌を歌えという…どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で」(詩137・1-3)。
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