愛は自慢しない
ギリシャ語の本来の意味は、見栄を張らないということ。見栄を張るのは、天狗になって知識をひけらかしたり、出しゃばることだからです。愛の人というのは、自分自身について多くを語ろうとしないだけでなく他の人に話題を向けようとします。つまり、注目の的になる必要を感じないのです。次の、高ぶらないという言葉に似ていて、文字通りには、人前で有頂天にならないことを意味しています。それは、自分を見せびらかす一種の妄想であり、現実が見えていない姿に過ぎないのです。
我が身を振り返ると
飛び上がって喜んだことはあるが、有頂天になった体験は思い出せない。「妄想の世界にいるのではないか、現実を直視していないのではないか」と人を批判したことはある。教皇もそんな自分を反省しながら書いておられるのかもしれない。ま、それはともかく、先に進もう。
本当に価値ある人とは
パウロは同じ動詞を別の箇所で次のように使います。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1コリ8,1)。 「私は誰よりも物知りなので価値のある重要人物」と考える人もいます。しかし、その人を本当の意味で価値のある人にするのは弱い人々を理解し、関心を示し、抱擁して愛を示す時なのです。
家族の中でも
家族の中でも、信仰に関する知識がなかったり確信が持てなかったりする人と愛をもって関わることはキリスト者にとって大切なことです。逆に、しっかりした信仰の持ち主が、他の家族にとって我慢ならない横柄な態度に出ることもあります。愛は謙虚さを特徴とします。すなわち、私たちが、心から相手を理解し、赦し、奉仕しようとするなら、私たちの自尊心は癒され、謙虚さが増すに違いありません。イエスは弟子たちに言われました。世の中では力が優先し誰もが相手を支配しようとするが、「あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタイ20,26)。
キリスト教的愛の姿
キリスト教的な愛の発想は、重要さや力の度合いではなく、「一番上になりたいものは、皆の僕になりなさい」(27節)というものです。家族の中で、誰が一番頭が良くて一番力があるかといった優劣を巡る発想は愛を壊すだけです。ペトロの勧めは家庭にも当てはまります。「皆互いに謙遜を身につけなさい。なぜなら、神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになるからです」(1ペトロ5,5)。(以上一部を除き「愛のよろこび」#97-98私訳。
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