献堂50周年と堅信式

50年の歴史を刻む聖堂も修復の時に来ている。先の日曜日に設置して貰ったいつくしの扉をくぐって中に入って驚いた。去る5日の叙階式で聖堂にあふれた信者たちは一体どこに消えたのかと思うほどに入堂時の聖堂はガラガラ。50年の節目を祝うにしては少なすぎる。入祭の歌が始まるまでの間、目で追いながら数えると左右合わせて100名強。ふと主任司祭の気持が思われてなんだか気の毒だった。

ところが、入祭の祈りが済み、朗読が始まってふと顔を上げると数分前のガラガラがウソのように聖堂に人が満ちていた。説教が始まる頃には、何事もなかったかのように聖堂は聞く雰囲気に満ちていた。”上手な遅刻”の仕方に感心した。最前列の11名の中学生たちが緊張の面持ちで神妙に座っているのが印象的だった。

話はフランシスコ教皇に倣うということで始めたものの、ふと、「フランシスコ教皇って知ってる?」と聞きたくなった。案の定、というか、1人の男の子が首を横に振った。新聞を読むわけでもない中学生が知らなくて当たり前だとは思うが、これは家庭で話題に上ることがない証拠?ついテンションが上がって、子供たちへの質問攻めのついでに「親が頼りない!」と断じてしまった。

「『今日はミサに行くので休ませてください』とたまには部活顧問の先生に言ってください。」年長らしい男の子が目をむき口あんぐり。「せめて月1回でいいんです」というと、「ま、それならナントカ…」と言わんばかりに妥協の首肯。ナントカ頑張って欲しい。

一人一人に堅信証明書が手渡された。部活に塾。子供を人質にとられている感じがする現象は今に始まったことではない。「神父さん、ボクも忙しんどー!」奄美に赴任した当初、「日曜日のミサにキチンと来るように。」塾に通う侍者の子供に対するお説教の返事だ。

そして、学校、家庭を上げて部活が一般化したのはそのあと間もなくのように思う。教会当局者の悩みの種の歴史はかれこれ半世紀になろうとしている。何とか、風穴を開けられないか。それが今日の中学生たちへのチャレンジ。信者の親がもっと声を上げないといけない。だが、親自身が部活や塾の人質になっている。そろそろ目覚めてほしい。

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