「えっ、私が?」戸惑う本人に「今返事してください」で決まった新司教

即答で開けた道

父よ、わたしを御手にゆだねます。

広島教区の司教空位は2年。他の教区の例を見ても「空位は当たり前」の感は否めない。なぜそんなにも手間取るのか。どうして、スッといかないのか。「果たして相応しいかどうか」と悩むのは当たり前だと思うが、今回選任された広島の新司教は即答した。「しばらく考えさせてください」という常識を瞬時に乗り越えたことは賞賛に値する。それは、前触れもなくなされた人類の未来を見据えた究極の人事とも言える大天使のお告げに即答されたマリア様の「ハイ」に通じるからだ。

信仰の原点

司教たちからの按手

いや、それほどのおおごとでなくても、日常生活のさまざまな場面で、不本意なことやややこしい人間関係、改善への努力はするとしても、どうすることもできないと分かったら、それでも戦い続けるか、はたまた恨みつらみで引きずるか、それともあっさり諦めるか。人さまざまだと思うが、いずれも信者としてはいかがなものか。お告げを受けたマリアさまのことを知っているなら、第三の道の選択も視野に入れないなら信者らしくない。マリア様の単純さこそ全ての信者の信仰の原点だからだ。

未信者が司教に

ミトラとバクルス(牧杖)を受けて着座

ローマの執政官だったアンブロジオの話は有名。信者でないことを知りながら、「アンブロジオを私たちの司教に!」信者たちの非常識な願いにバチカンは動いた。「わ、わたしは信者でもありません!」と固辞したに違いないのだが、結局彼は洗礼を受けて信者になり最終的には司教そして聖人だ。カトリックは元々そんな風に懐が深いのだと思う。

イザヤとエレミヤ

司教たちに感謝の挨拶

イザヤは、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という神様の問いかけに「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と手を挙げた(イザヤ6.8)。召命に対するいさぎよい姿と言える。一方対照的なのはエレミヤだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」と神様から太鼓判を押されたにもかかわらず、 「ああ、わが主なる神よわたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1.5-6)。すると、神様の説得が延々と続き1章が終わる。「これではラチがあかん」と思われたのか、神様が「行って、エルサレムの人々に呼びかけ」(2.2)なさいと 一喝された。すると、エレミヤは仕方なく(?) 語りだすというように、神様をかなり手こずらせた。

結論

信徒代表の挨拶は若者たち

最後は、素直に折れる。これが召命?でもできれば、神様をあまりてこずらさないほうがいいとは思う。信徒代表祝辞は三地区代表の若者三人。紋章をあしらったTシャツはミサ後完売したとか。

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