殉教祭
昨日は福者レオ税所七右衛門殉教祭。ミサの福音はヨハネ12章24〜26節。「一粒の麦が…」の箇所。大阪釜ヶ崎で労働者たちと暮らしながら聖書の研究を続けるあの本田神父さんの訳を手にとって驚いた。24節の「一粒の麦が…」云々の部分はいいとして、続く2節は下記の通り。「25自分自身に執着するものは、自分を滅ぼす。この世に絡め取られた自分自身を憎むものは、永遠の命にむけて自分を守り通すのだ。26私に協力しようというものは誰であれ、私についてくればいい。私が立っているところに、私に協力しようというものも立つものだ。私に協力しようというものが誰であれ、父はその人をとうとばれる。」
スッとくる訳がほしい
なんと分かりやすく斬新な訳だこと!「自分の命を愛する者はそれを失う」と言われると、初めて耳にする人にとっては面食らうに違いない。自分の命も人の命も粗末にしていると思われる出来事が絶えない今日この頃ではないか。高齢者の車の事故の多さはその典型。怒りすら覚える💢。いまはその話ではなかった。あ、そうだ、自分の命だった。だから、話が脱線するほどややこしいことになるので、「自分自身に執着するものは自分を滅ぼす」とすればスッとくる。
絡め取られた!
圧巻は次の訳だ。「この世に絡め取られた自分自身を憎むもの」。「そうだ!」思わず手を打ったものだ。愛する甥や姪たちを見ているといい子たちばかりなのだが、信仰があるのかないのか。「この世の力に絡め取られて一網打尽。」かねがねそんな印象を拭えないでいるので、本田神父さんが全く同じ ことばを採用しているのが嬉しかった。ともあれ、「これはいかん!」と奮起してくれる姿こそが「絡め取られている自分を憎む」ことであり、こうして「永遠の命に向けて自分を守り通すことになる」わけだ。
イエス様に協力する
驚きはまだあった。26節の「私に協力しようというものは …」「仕えるが協力する?」思わず、ろくに分かりもしないギリシャ語辞典を開いた。しかし、「協力する」という訳はない。「イエス様に仕える。」イエス様にハイと言う。イエス様の気持ちをおもんばかる。みことばを理解しようとする。イエス様の重荷を少しでも軽くしようとする。イメージの湧くままに呟いているうちに「イエス様に協力する。」フッと出た。まるで、連想ゲームをしているうちに正解にたどり着いた感じだ。ナールほど!神父さんの名訳はこうして生まれたのかも知れない。長くなったので、今日はこれまで。*日韓司教会議初日。インチョンのホテルより。
コメント